Kyoto〜京都〜


Kyoto Index


京都について

観光地として、一般の街として、追憶として...


2002/01/17

テレビ番組二題

近頃は京都に行くこともできず、京都の街もはるか向こうのほうに霞んでいるのだが、先日京都に関わるテレビをたて続けに見た。


京都の喫茶店を思い出す 〜『京都迷宮案内』を見て

まずひとつめはこの冬で第4弾となる『京都迷宮案内』(東映製作)。京都を舞台にした人情系サスペンス?推理ドラマ??で、橋爪功が演じる新聞記者・杉浦が野際陽子演じる新聞社のキャップにいじめ?られながら、事件を解決していくというかなりコミカルな探偵モノ(個人的には大路恵美がかわいい(自爆))。以前のWhat's New !でもとりあげたことがあったが、京都に精通した人たちがスタッフであると見えて、かなり知られていない歴史上の名所旧跡、そればかりでなく現在の京都を何気ない視点で映し出したり、京都のタブーとも受け取れるようなことを取り上げるなど、設定に無理があることを除いても他の京都モノのテレビ番組とは一線を画している番組のように思う。

新年早々風邪をひいてしまった私は、重い頭でこたつでのぼせながらこの番組を見ていた。今日の橋爪功、顔色悪いよなぁ〜、と小さな画面を眺めているとどこか懐かしい看板が。千本今出川の『静香』という喫茶店がロケで使われているではないか。千本今出川といえば友人や先輩もいたし、バイト先にも近い、買い物に行っていたスーパーの途中、市バスで「文具の青谷前です…」で知られる千本今出川。雑誌やガイドにも取り上げられて、いつも気にはなっていた喫茶店ではあったのだが私は本来喫茶店に行く習慣がなかったのと、喫茶店は買い物のとき疲れたら寄る場所、少し改まった知り合いと待ち合わせる場所、として使っていた私は河原町周辺の喫茶店によることがあっても、近所の千本今出川で喫茶店に寄ろうという気にはならずそのままになっていた。確かに『静香』はある種独特の雰囲気を放っていて、私のような学生には入るのに勇気がいった。今回ロケで使われているのを見て、内装は大正時代の喫茶店を思わせるものの、意外と明るく感じた。撮影用の照明が使われているから、実際行ってみればもっと薄暗いかもしれない。どちらにしろ、6年間ずっと入れなかった喫茶店をこんな形で見ることになるのには少し戸惑いつつも、今まで少し離れていた京都への気持ちが少し蘇ってきたのは確かなようだ。

静香、フランソア、イノダコーヒー、築地、みゅーず、マールブランシュ、ボーマニエール、青山、ラ・メゾンドゥース、セカンドハウス…他にもたくさんあった。「喫茶店に行く習慣がなかった」と思い込んでいたわりにはずいぶんたくさんの喫茶店にいっていたようだ。京都を離れてちょうど2年、この街で立ち寄った喫茶店は3つか、4つか…。ふらりと立ち寄れる喫茶店がある街に住みたい。


京都の街並みの崩壊と排他性の解消 〜映画『いちげんさん』を見て

さて、もうひとつテレビを見た話。風邪をひきつつも今年初めての1週間を終え、思いっきり遅く起きた土曜、私の手は自然とテレビのリモコンに向かった。一人暮らしも長くなると朝起きて一人だろうが誰がいようが、とりあえずテレビをつけるようになる。仕事から帰ってきても同じだし、こうしてパソコンに向かっているときも、見てもいないのにニュースキャスターが時代について語っている。その日の朝もその如くテレビをつけて見るともなく、朝飯のような昼食のようなパンとジュースという食事のようなものを取りつつ、イタリアン・ピザの番組をBGMにして「やっぱりヨーロッパはえーなー」などと思いながら、番組も終わったのでチャンネルを無意識に変えていた。土曜の昼の12時というのはだいたいテレビをこんな調子で見ていると思うが、どの番組を見ているということもなく、この日も単にテレビがついていればよいと思っていた。

突然、CMの雑然とした音が消えた。こういうとき、私は思わず画面を見てしまう。
いちげんざん …と画面に番組のタイトルを見た。上下に黒いブランクがあるということは映画だろうか。「いちげんさん」・・・このタイトルの小説が京都の書店でベストセラーにあがっていたことは覚えている。ひょっとしたら発売されたとき、書店でバイトしていたかもしれない。たぶん大学2回か3回生のころだろう。京都の街というのは面白いもので、京都に関わる書物が出版されると必ず平積みになる。ある程度大きな書店ならば『京都』のコーナーがあり、そのこと自体はどの地域でも『郷土コーナー』があるのと同様、そうそう珍しいことではないのだが、このコーナーの割き方がすごい。かなり広く、しかも内容も濃い。それだけ京都に関わる作品が多いということだろうが、それが文学賞の受賞作品ともなれば、京都コーナーだけでは済まされず、店を入って一番目立つ場所である平台の一角を占領して否が応でも目に入るようになっている。この作品はすばる文学賞を受賞して、それなりに売れていたと思うが、あれだけすれば当然、という気もした。そんなわけで記憶には残っているのだが読もうとは思わなかった。私はこの作品について、著者が京都に住んでいた外国人で、内容がその外国人と日本人女性(それもたぶん芸者、と思い込んでいた(爆))との恋愛、しかも結構キワドイ、という情報以外知らなかった。『いちげんさん』というタイトルと私の情報を総合するに、「外国人が芸者と恋をしたけど文化の壁があって別れた。日本とはなんという国だ!」という思い込み外国人の作品に日本人が変に同情を寄せている程度の小説では?、と勝手に判断していた。高校時代、外国人の独りよがりな日本批判を書いた作品を読んだことがある私は、それ以後外国人が日本について書いた本というのはいまいち読む気になれなかったし、しかも売れているとくれば判官びいきの私は読もうという気が起こらなくて当然だったといえる。そのまま時は過ぎ、この作品は映画化されたようだが、この作品が完成した1999年、私はラジオだけの生活をしていたのでその存在すら知らず、今日ここに偶然出会って暇に任せて見ることになったのである。

今思えばずいぶん偏見に満ちた想像で読まないことを決めていた本ではあったが、私も少しは大人になったのか、それともまだ夢から覚めぬまま映画の世界に入ってしまったからなのか、特に先入観なく見ることができた。

ストーリーとしては… 日本語堪能なスイス人留学生である主人公はふとしたきっかけで盲目の女性・京子の対面朗読を始める。次第に愛し合うようになる二人だが、京都という街は「外人」である主人公にも「盲目」である京子にも排他的で二人ともこの街に溶け込むことができない。やがて京子は東京で就職、主人公もフランスで就職することが決まり、別れとなる。 …というもの。

「外人」や「盲目の人」を「いちげんさん」として、表面上は受け入れたふりはするものの特殊なレッテルを貼り、決して内側に入れようとしない京都という街(あるいは日本という国)を美しい恋愛小説を通して批判しているというのはわかるが、この映画を見ただけでは納得いかないところがあった。…そこで、私は先日原作の文庫本を買ってしまった。出版当時、絶対に買うことはないだろう、と思っていたのだが、ずいぶん遠回りした挙句、いまさらになって買ってしまった。読み始めてみると映画では描ききれなかった部分や、謎だった部分が見えるというおもしろさに加えて京都の街の懐かしさや学生生活で共感できる部分もあり、わずか二晩で読んでしまった。私が気になった部分をいくつか抜き出してみると・・・。

この街には日本人だけではなく、世界中から大勢の観光客が年中やってきた。(中略)多くの人に愛されるだけの魅力はあった。

しかし街を全体的に見た場合、それは景観のカオスとでも言うべき所だった。(中略)どの通りを見ても、建物の間のバランスはまったく取れていない。骨董品の老舗の右隣りはパチンコ店であったり、左隣りはカラオケであったりした。高さの違った木造家屋や鉄筋ビルやコンクリートのマンションなど、種々雑多の建築物が平然と並んでいた。街は僕の目にグロテスクにさえ見えた。

混沌とした場所が嫌いなわけではない。どちらかと言えば、混沌とした方が好きなのだ。しかしそこには活気というものがなければならない。ところが、九月の昼下がりの京都には活気というものがあまりにもなさすぎた。千二百年の歴史は停滞していた。

〜デビット・ゾペティ『いちげんさん』 ,集英社文庫, pp.64-66 より

この部分は読んでいてぞっとした。1999年に、結局京都を離れようという最後の決意を私にさせたのはここだった。6年近くこの街に住んで、その間にも停滞、というか、衰退を感じた。ここに住む人たちはそのことに気がついているのにそれは一向に改善されないし、将来への見通しも甘い。京都を離れ、毎年のように観光客として京都を訪れるが、そのたびにこのことは感じるし、事態は悪化の一途をたどっていると思う。

もうひとつ、主人公が繰り返し経験してきて、言葉に言い表しにくかった京都の外国人に対する接し方を表現している部分をあげる。

街の人はいつも僕をいつもじろじろと見ていた。彼らは常に人の外見で態度や接し方を決め、僕はそのためにいつも不愉快な思いをさせられた。人を外見で判断するのは−程度の差こそあれ−どの国の人間にも共通することで、とりわけ珍しい現象ではない。しかし京都の場合、話は微妙に違っていた。人を見て、その外見から瞬時にして何かを勝手に決めつけて、相手の気持ちを感心してしまうほど無視したラベルを貼り付けるプロセスは極めて特殊だった。

それは決して「差別」とか「閉鎖性」といったありふれた言葉で片づけることのできる単純な問題ではなかった。そこにはもっと薄気味悪い−一見見えそうで、その実、目には見えない−微妙な区別のメカニズムが存在していた。皮膚でそのメカニズムを感じ取ることはできても、それは明確な形を持ったものではなかった。それに立ち向かおうとすると、いつも何かにかわされてしまった。その際に音も衝突も痛みもなかったのだが、何度もかわされるうちに、体も心もあざだらけになった。

そしてやはり、すべてが外見というものから始まっていた。僕は人に見られることに極端に疲れているのかもしれない、と思った。いちいち外人という名の道化師の役を演じさせられることにうんざりだ。

〜デビット・ゾペティ『いちげんさん』 ,集英社文庫, pp.131-132 より

私は外国人ではないのでここまでは感じなかったが、やはり京都という街には「よそもの」にこれと似たラベルを貼り付ける癖があるように思われた。

しかし、私にはこの二つが表裏一体のもののように思えてならない。京都の町並みの崩壊は京都らしさの崩壊であるのと同時に京都の排他性(あるいはそれ以上の何か)の解消は京都らしさの解消のように思える。つまり、京都という街はそれだけ縛られているということだ。そして、多くの人が両者のずれに苦しみもがいている。それは京都人も一見さんも両方がもがいているのであり、それがこの街の停滞の原因という気すらしてくる。

いささか疲れた解釈をしてしまった。原作を読むと少しくどいまでに主人公のイライラが描写されており、こんな考えも浮かんできてしまう。映画だけ見て、甘く切ない恋愛モノとして終わらせてもよかったのかもしれないが、原作を読んで考え込むのも悪くなかったな、とは思うけれど。それにしても久しぶりに小説読むとうんざりです。自分の表現力のなさに落ち込むのと、こんな文章書ける人への嫉妬で(苦笑)。




2001/06/06

丘の上から見た京都(1)

船岡山(上京区)

京都は三方を山に囲まれた街である。西山の峰峰、嵐山、愛宕山、北山の峰峰、比叡山、東山連峰・・・ 山国生まれの私の目には、いずれもたおやかな、女性的な山々に映ったが、山は山であり、大きな人の行き来を大きく遮断し、その地形や気候は人を寄せつけないものがあった。その反面、囲まれているだけで、妙な安心感がある。これは京都にいる時は気づかなかったのだが、今住んでいる街に来てから気がついた。今住んでいる街は関東平野の真っ只中、北東に大きな山があるのだが、やや距離がある。この街に来て数日で感じたことは「落ち着かない」ということだった。日は山から昇り、山へと沈むものだったのに、地平線から昇り、丘へと沈む。夜になってもどこか落ち着かなく、漠然とした不安を抱きながら眠れぬ夜を過ごした。この時になって、ようやく山というものの包容力の大きさに頼って生きていたのだということを実感した。それは、母親のお腹の中にいた時の記憶なのか、小さな頃、怖い話を聞いたあとに布団の中に潜って、震えながらもやがて寝てしまった時の安心感と通じるものがあるように思う。

さて、私はそんな山に登って街を眺めるのが好きだ。山に登るのは疲れるし嫌いなのだが、あの景色を眺められることを思うと少しくらいは耐えられる(たくさんは無理だが)。特に街と山が近接した京都のような街を眺めるのは大好きだ。いつまで眺めていても飽きることがない。だが、1軒1軒の家並みの区別がつかないほど高い山や遠くの山からの眺めはつまらない。それは人間の生活を感じられないからかもしれない。

最も疲れず、お金をかけずに京都らしい京都を一望できるのは船岡山ではないかと思う。私はこの山によく登った。山といっても標高111.9m、最寄りの船岡山のバス停から徒歩10分ほどだ。京都生まれの知り合いにこの山が好きだと話したら、「むかしあそこで警察官が人殺して捕まったんやで。そやからあそこは怖いとこというイメージしかない。」と言われてしまった。たしかに、今でも夜などは人気もないし、物騒な場所らしい。それはともかく、山頂付近は公園になっており、景色が一望できる。手前の紫野、西陣の昔ながらの黒い瓦屋根の家並み、さらに見やると東から、御所の森、西陣の中心部、北野天満宮の森、仁和寺の五重塔、西大文字など、京都という街の中にいることが実感できる。

ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。

屋上から町並みを眺めると四方を山に囲まれた箱庭のような京都の町がある。せせこましく立ち並んだ小さな家々、ばからしいほど密集している小さな存在。

〜高野悦子『二十歳の原点』 , p.179 より

この文章は高野悦子が鉄道自殺する6日前の1969年6月17日の日記の末尾だ。恋愛の悩み、自分という人間の存在の小ささを嘆き、そんな自分と京都の町の家々を照らし合わせている。彼女のいうことも、もっともだと思う。こんなに閉鎖的な、ごみごみした所で、いかに自分ががんばっても、わめいてみてもしょせん小さな世界での出来事、生きていて何の価値があろうか、生きるなんてばからしいではないか・・・。しかし、人間ひとりが小さな存在であることがばからしいだろうか?人生はつまらないんだろうか?

私は京都の高台に上ると、いつもこの高野悦子の一節を思い出す。「箱庭のような京都の町」を眺め、「せせこましく、密集した家々」を見つめる。自分もおそらく、この町家の一つのような小さな存在かもしれない。しかし、この数多くの甍にもその数だけの人間、家族が同じように生きているんだな、と思うと不思議に胸の鼓動が高鳴る。この中で、いかに自分らしく、最後に後悔しない形で生きていけるんだろうか、ほら、あそこにも、あそこにも同じに思ってやっている人がいる!そうやって、この街も成り立っているのだと思うと、すぐにこの街にはばたきたくなってくる。今日はどんな街の、そしてどんな人間の姿を見ることができるのだろうか?と。

【市バス】船岡山下車徒歩10分



2001/04/24

東京よりも遠い原谷(北区)

先日の、京の田舎である山越あたりのことを書いていたら、ふとここのことも書きたくなってきた。

地図を見ていただくとわかるが、原谷というのは妙な場所にある。金閣寺の裏手の、衣笠氷室町あたりから峠を越えて、少し下ったあたりを京都市北区大北山原谷町と呼ぶ。特に街道筋ということもなければ、何らかの寺院があるというわけでもなく、春に「原谷の桜」と呼ばれるしだれ桜が有名なこと以外、取りたてて何があるというところではない。(しだれ桜は個人の所有地にあるということで、入場料が千円もするらしい!)話によるとこの場所は戦時中に開拓された場所らしく、立命館が衣笠に移転後はこの地にマンションなども建ち始めたが、農協とコンビニ、書店がそれぞれ1件あるだけ、あとは住宅と農家が何件かあるくらいだ(学校なんかはない)。交通手段は立命館大学(衣笠)から少し小柄なバスが1時間に1本ほど走っているのみで、冬季など峠道が凍結すると京都の街に下りてこれない。原谷に下宿している友人がいたが、バスは夜9時に終わり(衣笠を9時ということは、河原町で遊んでいられるのは8時までということである。8時という時間は新幹線であればその日のうちに東京にも戻れる!)、交番もないのでバイク泥棒も多く、買い物は不便、ただ一つのメリットといえば家賃が市街地より2〜5割安いということだけだと話していた。その友人も1年で山を下りて花園に越した。こんな書き方をするとさぞかし山奥のように感じるかもしれないが、金閣寺道あたりから車で行って5分とかからない場所なのだ。私も初めて京都に越してきた時不動産屋に白地図を見せられて、直線距離で1キロちょっとの場所に安くて新しいマンションがあり、環境は閑静そのもの、しかも空室がたくさんだったのですぐに飛びついたが、不動産屋は冷静に「原谷はねぇ、ちょっと考えたほうがいいですよ。バイクか何かあるんだったら別だけど・・・」と、遠回しにこのあたりの物件はやめておいたほうがいい、という意味のことを言った。

この原谷に初めて行ったのは大学2年の頃だった。すごく遠いというイメージがあったが、暇だったので自転車で行くことにしたのだ。原谷氷室町のバス停をすぎると人家もなくなり、急な曲がりくねった道が続く。振り返ると京の街が眼下に見える。かつては一般のバスでは曲がりきれず、マイクロバスしか通ることができなかったというヘアピンカーブを過ぎ(原谷行きバス≪M1系統≫の"M"はマイクロの"M"だという。決してマウンテンの"M"ではない、という冗談話があったほどだ。)、老人ホームが見えてくる。まだまだこの坂は続くのか?と思いきや少し下りになり、そこはもう原谷である。自転車を引いてきても30分ほどしかかからなかった。

原谷に来て感じたことは、ここは「京都」ではないということだった。どちらかというと「丹波」の農村に近い風景だった。どこか空気がのんびりしていて、京都の街が見えない分だけ時間の流れが違うように感じた。農家や民家がぴったり来ていて、そこへいくと学生向きに作られたコンビニやマンションは不釣り合いである。車で5分で金閣寺、10分で白梅町の繁華街にも出られるのにこの雰囲気が出せるところがさすが京都だと思った。そして、今考えればこの「身近に田舎がある」という感覚が京都の街にどこか流れている安心感の要因だったように思う。人は都会的なものを求めながらも、どこかで生まれ育った田舎に近いものを感じると落ち着くのだろう。少なくとも私はそうだった。

なお、原谷から外に出る道は3つある。一つは紹介した金閣寺からの道である。あと二つは、まず、鷹ヶ峰の若狭街道から分岐して原谷川(京都の市街地に入ると紙屋川→天神川と名を変える。洛中と洛外を分けている川である。)をさかのぼるルート。ここは北山杉の鬱蒼とした中の一本道、なかなか風情がある。最後は御室仁和寺の裏手から急激に登っていく坂の道。ここも右京区が一望できるところで、おススメである。もし、京都の街の都会らしさを再認識したいのであれば、原谷に行ってきてから戻ってきてみたらいい。京都の奥深さと、落ち着く街である要因の何かを実感できるかもしれない。
(ただし観光向けではありません。こんな京都もあるのか、と感じたい方のために。)

【市バス】原谷農協前下車(立命館大学前からバス便あり)



2001/04/22

宇多野・山越行き(右京区)

京都の街を歩いていると、行き先板に「宇多野・山越」と書かれたバスにしばしば出くわす。金閣寺、竜安寺、北野天満宮、仁和寺など、この行き先のバスに乗っていくことも多いので、観光でもよく使うのだが、終点まで使うということはあまりない。

山越の停留所は、広沢池の東、音戸山の木々や竹林に囲まれた、もの寂しい場所にある。音戸山は立ち入ることはできないが、君が代に歌われる「さざれ石」が山頂近くにあるという。地図で見ると弁慶足型池というのもあるが、鯉の養殖場があるだけで、観光する場所のようではない。広沢池や遍照寺へは歩けば15分ほどだろうが、ここも、もともともの寂しい場所で、ハイキングを除けばオフシーズンや夕方以降は人影もほとんど見られない。しかし、私はこのあたりがなんとなく好きだった。

京都に来た1年目は、交通の便の悪い場所に住んでいた。最初は嵐電の常盤という駅から電車で通っていたが、歩いて15分近くかかったし、大学側の駅も電車を降りてから10分は歩かねばならなかった。晴れた日は電車になど乗らずに自転車で行っていたが、どちらにせよ30分はかかってしまっていた。他によいルートはないものかと思い、地図を見て、「山越」を見つけたのだ。バス停までの道は「千代の古道」という平安の時代から数多くの歌に詠まれてきた道で、こんなところにも歴史を感じさせるのが京都らしい。10分ほど歩くと桧皮やら木やらで作られた待合室のバス停に着いた。待合室に入って気がついたのだが、壁にぎっしりと落書きがされている。おもしろいことに、この落書きは修学旅行生のものらしく「河原町に行こうとしたらここに着いちゃったよ」とか「間違えてきてしまったので今から金閣寺に戻ります ○○中学校3年4組××」といった類のものばかりなのだ。バスを待つ間、この落書きを見ているだけでもおもしろい。やがてどこからともなく数人の人が集まってきて、バスもやってきたので乗り込む。始発なので時間は正確だし絶対に座れる。そんなわけで、何がいいというわけでもないのだが気に入ってしまったのだ。もしかしたら京都の街中から20分ほどしか離れていないのにすっかり田舎になってしまっているところが好きだったのかもしれない。

1年間、週に2回程度は使っていたが、その間にはやはり間違えて乗ってきてしまったらしい修学旅行生にであったり、広沢池に行きたいという外国人に道を聞かれたりした。終バスで帰った時など、途中で乗客はすべて降り、真っ暗な終点で降ろされ、かなり薄気味悪い気分になったこともある。1年で引っ越してしまったのでこのバス停に行くことはその後2度となかったが、今思い出すと、不思議な経験だったと思う。今度は、広沢池や遍照寺に観光に行く時にでも使ってみようかと思っているが、終バスで行くことは二度とできないと思うと、昨日のことのように感じていたこの事実も過去のものなのだな、と感じる。

(※追加情報・・・2001年夏に訪問した時には桧皮葺の待合室はなくなっていました。残念。)

【市バス】山越下車(10・26・59系統で寝過ごすと行けます(苦笑))



2001/03/08

2001年・京の冬の旅(2)

京の宿坊(下京区)

東寺観智院を拝観したら、時間はすでに4時近かった。三十三間堂か智積院を見たいと思っていたが、時間的にもう無理そうだ。とりあえずバスに乗って東山七条方面に向かった。市電の架線柱が今なお残る九条跨線橋を越える。この橋は京都市内で最も長いそうで、鴨川、JR奈良線、京阪電車を跨いでいる。この跨線橋を歩いて渡ったことがあるが、どこか懐かしい、戦後京都の忘れ形見のような雰囲気がある。その雰囲気は跨線橋を渡り終えた泉涌寺道付近の商店街にもある。さして広くはない九条通が東山通に変わるカーブに軒を連ねた店は、小さいものばかりだが生活に根づいた商店ばかりだ。活気のある店、客のいない店、明るい店、薄暗い店・・・画一的になったショッピングセンターには見られない、本来の商店街の姿がそこにあった。少し疲れた近代の九条跨線橋と東海道の跨線橋に挟まれたこの地域は、京都の風景でも異色のもののように思う。

三十三間堂は案の定すでに閉まっており、改修中の京都国立博物館を横目に、以前このページでも取り上げた正面通を逆に通って宿坊へと戻ることにした。途中、正面橋のたもと、そう、任天堂の向かいにあるあられ屋で鬼山椒を買って、それをぶらぶら提げながら宿坊に入った。

宿に入るとおかみさんが「今日は寒かったでしょう。昨日まではあったかでしたのに・・・」と迎えてくれた。通されたのは七条通に面した部屋で、炬燵が用意されていた。障子を開け窓から外を見やると、東本願寺の白壁が見え、その向こうの数々の御堂が夕焼け曇で輪郭だけが映し出され、洛陽の昔日を蘇らせるようだった。しかし手前には右に左に自動車が駆け抜け、現代であるということを思い知らされる。ふと我に返ると、今日は少し寒かったからだろうか、腰あたりが冷え、どこか気持ちが悪い。私はすぐに風呂に入ることにした。

檜風呂でゆっくりすると、気持ち悪いのが吹き飛んだ。身体が芯から温まり、食欲も出てきたところでちょうど夕食となる。ここの宿坊では食事は食堂で取る。食堂といってもこじんまりとしていて、畳敷きの小部屋をいくつかつなげたといった感じだ。奥に仏壇があるのは宿坊らしいところか。風呂上がりのビール、これは定番だろう(って、俺もおっさんやなぁ〜)。湯豆腐、鰤の照焼き、法蓮草の胡麻和え、はまちと鮪の刺し身、ぜんまいと野菜の煮付け、小魚の佃煮、漬物、味噌汁・・・こんなメニューだったか。ここの食事は味付けが上品でうまい。さらに、ご飯の炊き方が上手なのか、ご飯がとにかく美味い。最後はお茶漬けで締めて、少しも残すことなく食べきってしまった。今日料理はとかく薄味といわれ、田舎で生まれた私にとって、実際薄味なのだが、ここの料理は薄味にも関わらず素材の味が生きていて、それぞれに主張がある。下手な店に入って京料理を食べると、味が薄いというよりも素材の味を抜いてしまったような味で物足りないことがあるし、店によってはそれを補うためかインスタントだしの味が染み込んだ安っぽい味を提供されることがあるだけに、朝食のみの場合より1000円余計に払うだけでこの食事を出してくれるのは嬉しい。

食後、久しぶりに夜の京の街をぶらぶらした。四条烏丸から四条河原町まで、閉店間近の店をのぞいたり、路上の人を眺めたりして過ごした。この街で生きているということを何の気なしに実感し、阪急百貨店前の停留所からバスに乗り、河原町正面の停留所で降りた。空の月を眺めながら、渉成園の壁沿いの薄暗い上珠数屋町通を歩く。やがていくつもの宿坊や仏具屋の間を抜ける。何とも言えず、落ち着いた物静かな中、自分の足音だけがこだまする・・・宿坊に戻ると、浴衣に半纏を着込み、炬燵にもぐりこんで夕刻に買った鬼山椒をつまみながら茶を飲んだ。関西弁のテレビを見ながら、京の寒い夜は更けていった。



2001/03/03

2001年・京の冬の旅(1)

木津屋橋通の雑居ビル(下京区)

今月は去る2月24日(土)から26日(月)にかけて行ってきた京都旅行から部分的な感想を交えながら京都紹介をしようと思う。私は当初、観光面だけでなく、さまざまな角度から見た京都を綴ろうと思っていたが、やはり観光都市京都、名所旧跡が絡んでいたほうが読みやすいし書くほうとしてもメリハリがつくと思い、名所旧跡を軸に、それにまつわる一般の歳としての京都も買いていきたいと思う。

正午近くに、私は京都駅に降り立った。前日からの雨も上がり、京都の空は曇天の中にも時折青空が見え隠れしていた。東本願寺近くの宿坊に荷物を置くと、さっそく京都を歩くこととした。まずは、昼食をとりに中華屋へと入った。プラッツ近鉄と京都駅の間の木津屋橋通に面した雑居ビルの2階にある狭い中華屋だ。プラッツ近鉄が、まだ京都近鉄百貨店だった頃、そこでのバイトを終え何度か来たことがある、知られざる名店(?)だ。そもそも京都駅前の夜は早い。バイトを終えた8時半過ぎともなると飲み屋こそまだ明かりを灯してはいるが、食事だけとなるとこの中華屋か七条のお好み焼き屋ぐらいしかない。京都中央郵便局近くの屋台のラーメン屋は末期にはすでになくなっていたし、ステーキ屋も知らないうちに店を閉めてしまっていたから、数少ない選択肢の一つだったのである。この中華屋は狭く、お世辞にもきれいとは言えない。相席にさせられることもしばしばであり、夜は半分飲み屋のような状況で、疲れたおじさんが客の中心だったから、バイト上がりの若者が何人もで押しかけるのはかなり異様な光景だったかもしれない(笑)。窓から見えるきれいになったプラッツ近鉄、その先の七条通の仏具屋街、東本願寺の黒光りした屋根瓦を眺めながら作業着やくたびれたスーツの男たちに混じって私はラーメンが来るのを待った。あの頃は、奥の座敷を陣取って、ああでもないこうでもないと語り合ってたかな。相席の技術屋風の男が定食を食べ終わると、待っていたフリーター風の男がそこに座る。私もやがて来たラーメンをすすりながら、一味違った京都を味わった。一般に京都駅前は何もないように見えるが、一つ筋を入れば、そこは大阪や関西のほかの街と変わらないような、泥臭さを持っている。単にはんなりと上品なだけでない京都の姿がそこにあると思う。そして、おそらくは、ここよりももっとディープな京都も京都駅前界隈には残されている。こんな風景は、やがて消えていってしまうかもしれないし、残しておく必要もないと思う。しかし、こんな京都もある、ということを覚えておきたい。そう思いながら、黒く油で汚れた雑居ビルの階段を下った。


東寺〜五重塔と観智院の茶室(南区)

腹も膨れたところで午後は東寺に行ってみることにした。素直に近鉄で京都駅から一駅目の東寺駅まで乗ればよかったのだが、七条通を西に進み、JR西大路駅を大回りして九条通をふたたび東に向かい東寺南門前に至る市バスの207系統に乗ってしまったので、到着に時間がかかってしまった。しばらく京都を離れているうちに交通に対する判断力も鈍ってしまったようで悔しい。

東寺は正式に金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と呼ばれ、空海(=弘法大師)で有名だ。毎月21日に開かれる縁日は「弘法さん」と呼ばれ、北野天満宮の「天神さん」と並んで大いに盛り上がる。そして、東寺といえば五重塔、新幹線で京都を素通りするとき、「京都だな」と思うのはこの五重塔だ。高さは55m、日本一の高さ。しかし、烏丸今出川の相国寺には室町時代、109mの塔が立っていたというからオドロキだ(ちなみに京都タワーは131m)。南門から境内に入る。京都でも、JR線よりも南側は保存よりも開発といった政策のようで、工場や事業所などが多い。そのためか、南区に位置する東寺はどこか荒んだイメージが私の中にあり、洛中の寺院のときのような心休まる雰囲気がない。五重塔は、近くに行くには入場料が必要で、今回は見送った(実は塔の内部が公開されていたのだが、あまり魅力を感じなかった)。そのかわり、東寺の塔頭(たっちゅう)のひとつである『観智院』を拝観することにした。

東寺の中で、五重塔内部とこの『観智院』は「京の冬の旅」の特別公開で定期観光バスが何台も乗り付け、非常に混雑していた。五大の庭は弘法大師が唐の長安から帰還される様子を枯山水であらわした庭園だが、あまり感心しなかった。枯山水の置き石や、砂をわざわざ「あれは亀の頭で、こっちは船、砂の白いところは波しぶき・・・」などと説明されても興ざめでしかない。音楽でも同じだが、モチーフを事細かに説明されてしまったのでは想像する楽しみがないし、曖昧で意味がないようで意味がある姿をぼんやりと、時期を変え何度も見ることによって次第に自分の中でイメージを持っていくというのが庭を見る楽しみではないか。客殿の宮本武蔵(伝)とされる鷲の図も、いまいちピンとこなかった。これは失敗したかな・・・と思いながらその先に進む。その先にあったのは「楓泉観」という茶室だった。この茶室は観智院の中でも他とは別の雰囲気を持っていた。狭い茶室に座り、やはり狭い庭を見る。先ほどまでの荒んだ気持ちは一瞬のうちに消えてなくなり、心が落ち着いていくのがわかった。

私は今まで東寺という寺があまり好きでなかった。茶室を見たぐらいでその気持ちは変わらなかったような気もするが、何かこの寺が違って見えてくるような気がした。

(木津屋橋通)【東海道本線・東海道新幹線・奈良線・山陰本(嵯峨野)線・湖西線・近鉄線・市営地下鉄烏丸線】京都駅下車徒歩5分
(東寺)【近鉄京都線】東寺駅下車徒歩5分 【市バス】東寺南門前、東寺東門前、東寺西門前、九条大宮下車すぐ


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