"Kyoto〜京都〜" Archives
2000/12/05-2001/02/08
Kyoto Index
京都について
観光地として、一般の街として、追憶として...
2001/02/08
冬の京都〜小雪舞う嵯峨野を歩く(右京区)京都に来て初めての冬、高校時代の友人が下宿を訪れた。当時、太秦(といっても、新丸太町通りと山越通の少し西、嵯峨野の境)に住んでいたこともあり、嵯峨野の寺あたりを回ろうということになった。下宿を出ると、空はどんよりとしており、京都独特の、芯から冷える寒さが体を冷やした。まず、嵐山に行き、竹林の中の道を歩いた。大河内山荘の下を右に曲がり、先に進む。友人もかなり寒いらしく、口数が少ない。山陰(嵯峨野)線の新線を電車が轟々と駆け抜けていく。嵯峨野風情をぶち壊す音ではある。輸送力増強のためにはしかたなかったという。小雪が舞いはじめる中、田舎びた道を歩き、常寂光寺に入る。
門をくぐり、階段を上る。東山の寺院に比べ、門や階段は格段に小さい。境内には、紅葉の名残のもみじが雪を浴びて顔を出しつつも、寒さが身にしみる現在、妙に違和感を感じる。多重塔などがあったが、次第に雪が強くなってきて私たちは常寂光寺を後にした。続いて、落柿舎へ。観光はがきで見たときは、ここの門の笠蓑が美しかったが、意外に貧弱であった。この悪天候にも関わらず、多くの人が訪れており、狭い落柿舎の庭は自分の思った場所に行けないほど混雑していた。多くの人が踏み荒している状況を見ると、こんなに狭い場所を公開しないでもよいのでは、という気がしてくる。何か違うな〜と思いつつ、祇王寺へ。ここはとにかく寒かった。明らかに、さっきよりも寒い。何か庵のような寺で、庭にさんさんと雪が降り積もる。庵の中からその景色を眺めると、まるで平家物語の時代にタイムスリップしたようだ。ただ、先ほどから雪の中を歩いたせいで、靴の中が湿ってきていた。そこから冷たさが全身に伝わり、居ても立ってもいられない。早く帰ろうとするが、友人はもう少し居たいようだ。じっと友人が満足するのを待つ。しかし、それも限界に来た。「寒いから、もう帰ろう。」
結局、私はこの後風邪をひいた。友人は、翌朝「寺は一人でまわったほうがいいな。」と言い残して帰った。おそらく、この時ほど最悪な寺巡りはなかっただろうな、と思う。しかし、それだけに印象深く、雪が降るような冷え込む日には、あの時の寒さと、頭の奥のほうで頭痛がする感覚を時々思い出す。私は、この冬を最後に太秦の下宿を離れた。今、嵯峨野を巡ればもう少し楽しくまわれるのだろうか。いつか、気が向いた頃に、またあのあたりをまわれればいいな、とは思っているのだが。今度は化野(あだしの)念仏寺や、二尊院も含めて・・・。
【市バス・京都バス】野々宮下車徒歩 など
2001/02/04
冬の京都〜嵐山・大河内山荘2月。京都でも、一番観光客の少ない時期に入るだろう。「冬の京都」と銘打って特別公開を行うなどして観光客誘致を図っているようだが、とにかく、冬の京都は寒い。特別公開だと聞いて寺院に行ってみたものの、靴を脱いで寺院に上がると、靴下を通り越して床の冷たさが伝わってくる。それはそれで風流なのだが、特別公開では学生さんなどが説明する係としていろいろ説明してくれる。彼女たちも寒い中ご苦労だと思うのだが、説明が始まるとあまり動くわけにはいかない。しかし、実際は動いていないと、とにかく寒いのだ。結局、鼻水を垂らしながら説明を聞くということになる(苦笑)。しかし、裏を返せば人ゴミが嫌いという人にはおすすめの時期である。修学旅行もさすがにこのシーズンは避けているようで、寒くていいのならば、静かな、自分だけの京都を見つけることができる。
今回はそんな冬の京都の中から、嵐山を紹介したい。嵐山は京都の中でも寒い場所にあたる。だから、できれば天気のよい、少しでも暖かい日に行くのがいいだろう。小雪舞う日に行くのもオツかな、と思って嵯峨野巡りをしたら、本気で風邪をひいたこともあるので。さて、嵐山に行くのは電車がよい。バスもあるし、自動車でもかまわないのだが、週末などはとにかく道路が混雑する。京都の中心部から嵐山に抜ける道路は少なく、三条通は狭い上に生活道路、途中で嵐電(京福電車)との交差があったりして、とにかく初心者など絶対に入っては行けないエリアである。もう一本の新丸太町通りが両側2車線ずつあって、メインストリートになるのだが、どん詰まりの嵐山で一気に道幅が狭くなり、抜け道も少ないのでやはり渋滞となる。特に紅葉のシーズンなどはひどく、わずか10キロ足らずに2時間以上かかったりすることがざらである。四条通から桂川の左岸を通る道もあるが、嵐山の道が狭いので、結局渋滞してしまう。京都駅からのバスも、3時間かかったことがあるが、もっとひどいときもあるに違いない。その点電車は正確である。京都駅からだったらJRの山陰(嵯峨野)線で20分、嵯峨嵐山駅下車、梅田からだったら阪急の特急で桂(2001年春から特急停車!)まで行き嵐山線で嵐山まで乗り換え時間を含めても1時間程度、京都市内だったら京福電車(嵐電)が便利だろう(ただし、阪急沿線だったら阪急のほうがおすすめ)。
さて、前置きが長くなってしまった。こんなに交通についてくどくど書いたのには訳がある。本当にひどいのだ。正直言うと、嵐山はあんなに苦労してまで行くところではない。しかし、行かないというのも少しもったいない。だから、行くのならばオフシーズンがおすすめなのだ。嵐山観光の中心、京福電車の嵐山駅に降り立つとすぐ向かいにあるのが天龍寺。天龍寺に入って北門から出ると(入らない場合は寺の北側の道を通って)、鬱蒼とした竹林が広がる。昼間でも少し暗く、シーズンオフには人の気配も少ない。竹の木の間から降り注ぐ陽の光が美しい。雪の降った次の日などに行くと、緑と白のコントラストが更に美しさを増してくれる。竹林の道の突き当たりに、大河内山荘への案内板がある。この大河内山荘、嵐山の中でも他の名所と比べ、訪れる人が若干少ないように感じる。それもそのはず、この建物は歴史あるというわけでもないし、何か御利益があるというわけでもないのだ。しかし、ここを訪れる価値はある。ここは、昭和前期の名優で時代劇の丹下左膳役で名を馳せた大河内伝次郎の山荘である(といっても、私は彼の活躍を知らない)。なんだ、芸能人の別荘か、とあなどることなかれ。私も、最初は乗り気でないままここに入ったのだった。しかし、入って驚いた。嵐山のほかのどこのお寺や名所よりも世間ずれしておらず、美しい場所だったのだ。まず、その庭の美しいこと。そして築山に登り、大乗閣から見る景色の美しいこと。右京の街並みが一望でき、3つの岡を並べた双ヶ丘、仁和寺とその五重塔、広沢の池、大沢の池、そして大覚寺。さらに、遠くに目を移すと、京都タワー、御所、北野の森なども見える。雪の降った日の朝、ここから眺めた風景を私は忘れることができない。築山を降りると大河内伝次郎の活躍がパネルに納められているが、ここまで極めた庭園を造った俳優は日本に他にいないように思う。芸能人が私は嫌いだが、少しこの人には畏敬の念を持たざるを得なかった。
それから半年ほど経った夏のある日、ここを訪れてみた。景色の美しさは相変わらずだったが、前回来たときとまったく違う風景のように思えた。初めて行った雪の降った次の朝があまりに衝撃的だったため、この時は何か物足りなくも感じたが、おそらく、ここは季節、時間、天候によってまったく違った表情を見せるのだろう。しかしながら、こんな、季節、時間、天候によって表情を変える庭を持つ家に住むこと、これほどの贅沢はないと思う。
【山陰本(嵯峨野)線】嵯峨嵐山駅下車徒歩20分 【阪急電鉄嵐山線】嵐山駅下車徒歩25分 【京福電車嵐山本線】嵐山駅下車徒歩15分 【市バス・京都バス】京福嵐山駅前または野々宮下車徒歩15分
2001/01/25
東本願寺界隈(3)〜正面通を東へ(下京区)渉成園を出て、その裏側、ちょうど先ほどの壁の向こう、河原町正面のバス停へと進む。河原町通を渡り、再び正面通を東へと進む。正面といっても、何の「正面」なのか?これは、よく疑問にされることだが、この通りの東で突き当たる場所に由来する。やがてわかることなので、ここでは割愛しよう。狭い通りを歩いていくと、高瀬川を渡る。コンパやカラオケの店が多い木屋町あたりの高瀬川では森鴎外の小説「高瀬川」の雰囲気を想像するのは難しいが、このあたりは昔ながらの雰囲気が残っており、あたりの静けさとあいまって、街の風景に溶け込んでいる。このあたりで高瀬川沿いに歩くのもいいかもしれない。ただし、この風景とは裏腹に高瀬川付近は治安はいまいち悪いという話もある。さて、先に足を進めると、左手にレンガ造りの洋館がある。果たしてこの建物はなんなのか、と思って近づいてみると「任天堂」とある。どうやら、古い任天堂の建物のようだ。ファミコンのイメージしかないのでこんな明治か大正の貿易会社のような瀟洒な建物を見ると驚いてしまうが、元はトランプや花札、百人一首のようなカードを扱っていた会社。この建物が元の本社かどうかはわからないが、小さいながらに存在感たっぷりで、こぎれいな建物だ。その建物から少し歩くと、そこに正面橋がある。
正面橋から豊国神社・方広寺(東山区)正面橋は非常に狭い橋だ。一方通行ではないが、洛中に架けられている鴨川の橋の中でも、松原橋と並んで狭いのではないかと思う。そのぶん交通量は少ないし、静かなので、橋の上からでも鴨川のせせらぎを聞くことができる。川端通を流れる車、四条方面を眺めると、ちょっと昔の京都にいるような気分になれるかもしれない。
この正面橋を渡ると東山区となる。かつては川端通と鴨川の間に京阪電車が走っていたが、今や地下に潜っている。京阪七条駅の地下への入口を横目に正面通を東に進む。 昔ながらの風情の商店街に入る。懐かしい佇まい、古い看板、京都にはこんな商店街がいっぱいある。その商店街を抜けると、突如として狭かった正面通が広くなる。これには正直言って驚いた。一方通行だった道路が、片側2車線、広い中央分離帯を持った道路に一転するのだ。これこそが、あるものの「正面」である証拠であろう。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に敵の耳を切り、ここに埋めたのではないか、といわれている耳塚を右に眺め、正面にある豊国神社に入る。広い境内で、京都女子大の上にある豊国廟(豊臣秀吉の墓所)にあったものを1880(明治13)年、この地に復興した。なぜ正面か?この豊国神社が正面にあるからなのか?近いけれど、そうではない。実は、豊国神社に隣接する方広寺にあった大仏の正面、という意味なのだ。1595年、豊臣秀吉によって開眼供養が行われたときには奈良の東大寺の大仏より大きな高さ20メートルの大仏が高さ48メートルの大仏殿に安置されていたという。信じがたいが、あたりには「大仏前郵便局」とか、「大仏前交番」など、大仏の文字が地名にも残り、かつて大仏があった名残をとどめている。当の大仏は、開眼供養後、地震で崩壊したり、火災で焼失したり、落雷で焼失したりで、そのたび小さいながらも大仏や仏像が作られたが、1973(昭和48)年に焼失したのを最後に、その後再建しようという動きがなく今日に至っているという。
豊国神社の北隣にその方広寺はある。1614年に大仏が作られた際、「国家安康君臣豊楽」と刻まれ、徳川家康が「家と康の字を分断し、豊臣が栄える」と因縁をつけた鐘が今も残る。小中高と何度もこの事件のことを教わったが、教師の言っていた通り、本当に小さい文字で、因縁をつけたとしか思えない(苦笑)。その鐘楼から方広寺を眺める。方広寺はすでに庫裡だけとなり、その庫裡の瓦屋根ですら歪み、崩壊寸前という印象だった。その庫裡で老婆が御札やお守りを売っていたが、その姿に何か豊臣の盛衰を見ずにはいられなかった。庫裡以外の境内は草がそのまま生え、そこにぎっしりと車が並んでいた。おそらく境内を駐車場として貸し出しているのだろう。その様子を見ているとため息が出て、鐘楼より先へと進もうとは思わなかった。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある、人と栖と、又かくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋れば、昔しありし家は稀なり。或は去年焼けて今年つくれり。或は大家ほろびて小家となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける。」・・・・・・とは鴨長明の『方丈記』の冒頭部分だが、頭の中にこの場面を思い浮かべつつ、何事もそういうものなのかもしれない、と思いながら、すでに途絶えた正面通を外れ、馬町の停留所へと急いだ。
【京阪電鉄本線】七条駅下車 【市バス・京都バス・京阪バス】河原町正面、七条京阪前、博物館三十三間堂前下車後徒歩 など
2001/01/19
東本願寺界隈(2)〜渉成園(下京区)東本願寺向かいの宿坊や仏具屋が並ぶ烏丸通から、正面通を東に入ると、そこは何のことはない京都の街並となる。観光客も少なく、その閑静で落ち着いた風情は、ここが平安の頃から根本的に変わっていないのではないか、とさえ思わせる。
その突き当たりに渉成園はある。枳殻(からたち)の生け垣をめぐらしたので別名・枳殻亭(きこくてい)とも呼ばれる。ここは地図で見るとほぼ正方形で、東本願寺の管理する庭である。拝観料はとらず、志納という形を取っているが、ただで見るには忍びない庭である。門の突き当たりは美しい石垣になっており、この部分だけを見ればお城のようかもしれない。庭園に出ると、想像以上に広いことに驚かされる。京都の庭園というと、比較的狭いものが多いが、ここでの驚きは、御所の庭園とか、あるいはどこか西洋の庭園にも通じるような、開放感がある。江戸時代の作ということで、庭園の建物などのひとつひとつは工夫が凝らされたものが多く、その多くに実際に足を踏み入れることができる。龍安寺の石庭のような庭園が物思いに耽るための庭園だとしたら、こちらは実際に歩く庭園といえるだろう。だから、建物や橋を通ったりできるのは、外国の人や、子供には退屈しなくていいのかな、と思う。かく言う私もこういう庭も好きなのだ。歩いていると、ふと壁があり、その向こうには河原町通がある。この壁の向こう側を、昔歩いたことがあった。バイトが終わってから、ある社員の人に連れられて、屋台に入った。隙間風が入り込む屋台で、結局その人とはおでんとうどんをすすって、深い話をすることもなく別れた。今思えば、何かもっと立ち入った話をしたくて私を誘ったように思えたが、その屋台に入ると、なぜだかそういう話は無用のもののように思えた。そして私はその人と別れ、この壁の向こう側を歩いていたのだ。寒い時期の夜10時頃だった。あの人は今何をしているのか・・・この壁の向こう側にあるバス停から家に帰ったような。
ふと、振り向いてその壁を背にして池を渡る橋の上に立つ。京都の駅ビル、周囲の高層建築、そしてにょろっと伸びた京都タワー。おそらく、これはいわゆる京都とは異質のものだろう。しかし、私には妙に現在の京都を表わしているもののように思えてならなかった。かつて、東山を借景にしていたこの庭園。いまでは、駅近く、大通りに囲まれ、それでも今なお不思議な静寂を保っている庭園。この橋の上に立つと、遠くから街の雑踏が聞こえる。この雑踏の音は、京都のものなのか、区別はつかない。しかし、その雑踏がどこか遠くのもののように思わせる、この静寂は京都のもののように感じた。そして、建ち並ぶ高層建築と、京都タワー、そして駅ビル。
京都という街は、たしかに観光都市である。しかし、そこに生きる人もいる。すべてが観光で食べているわけではない。そういう現実を、抽象的に、しかし、視覚的に表わしている、それが渉成園である。いわゆる京都にうんざりしたら、ここを訪れて欲しい。なぜなら、ここは現実の京都と、古の街・京都との境のような気がする場所だから。
【東海道本線・東海道新幹線・奈良線・山陰本(嵯峨野)線・湖西線・近鉄線・市営地下鉄烏丸線】京都駅下車徒歩15分【市バス・京都バス】烏丸六条下車徒歩5分 など
2001/01/15
東本願寺界隈(1)〜東本願寺と宿坊(下京区)京都駅を烏丸口側から出て、烏丸通を北に進む。京都タワー、プラッツ近鉄(旧・京都近鉄百貨店)、七条警察などがあり、七条通を渡ると、そこは東本願寺。政令指定都市の駅前の正面口だというのに、こうして5分も歩けば、商店はなくなり、夜など人気も少ない。以前、流れの観光客らしき人が「あー、駅前なのにこの程度じゃたいした街じゃないよ。」と言っていたが、言うまでもなく、これは正しくない(笑)。大都市というのはメイン・ターミナルと中心部が離れていることが多いからである。有名な例では福岡の博多駅。私自身、博多に夜着いたのだが、駅ビル以外、まともに店もなくがっくりきたものだった。もちろん、次の日、天神のほうに足を伸ばし、福岡という街の賑やかさを実感した。他にも、広島、松山、金沢など、駅前がたいしたことない街は多い。名古屋だって、近年デパートが増えてきたが、それでも栄のほうがよほど賑やかだろう。こうした事実は、汽車の蒸気で環境が悪い、ということや、駅という場所が様々な人間が交錯し、治安的にも好ましくないというような理由で街の中心部に鉄道をひくことを好まなかったからであろう。しかし、私としてはそんな街が好きだ。駅を降りただけでその街のほとんどがわかった気になってしまうような街より、駅からしばらく離れて地元の人がたくさん行き来するような場所を持っている街の方が、街として奥行きや深みを感じることができ、「また来よう!」という気にさせるのだ。
メイン・ターミナルから中心商店街の間というのは、民家や雑居ビルが建ち並び、ずいぶん殺風景なものと思っていたのだが、意外にも閑静で、かえってその街のいきいきとした部分を眺めることができるということに最近気づいた。私は、京都でも七条通から四条通の間というのは、「何もない場所」と思い込んで、ほとんど足を伸ばすことがなかったのだが、実際行ってみるとずいぶん興味深い。まず、白壁を左手に見つつ烏丸通を北上し、東本願寺の門をくぐる。ここは現役の信仰の対象として、今でも見世物ではない寺院の雰囲気がある。朝の開門時間は6時前後だったろうか、夜行列車や夜行バスで京都駅に着いたら、ここで清々しく朝の散歩や、境内のベンチで軽く朝食でもするのがいいかもしれない。京都ではお決まりの拝観料というのもここではない。京都市の公園面積はずいぶん狭いようだが、ここ東本願寺や御所、鴨川河畔など、ただでくつろげる場所がずいぶんとあるので、都市公園や児童公園が多少狭くても恵まれているな、と思う。このあたりだけ異常に広い烏丸通を挟んで東本願寺の向かいには、宿坊と呼ばれる東本願寺信徒のための旅館や数珠や仏具などを扱う店が並んでいる。宿坊に一度泊まったことがあるのだが、これはなかなかおススメである。二食付きで一人で泊まっても一万円前後。宗教的祭事がある時期は満室になるが、他のシーズンだったら比較的取り易い。駅や通りから近くて便利なのに夜は閑静で、食事も純和風でうまい。大阪に出張になったら、少し遠くても京都のこのあたりの宿をとりたいな、と思う。夜、河原町や木屋町、先斗町に飲みに行くにもちょうど距離がよいし、朝は散策するのがいい。駅まで荷物を持って京の街を眺めながらこの街を離れるのも旅の締めくくりとしては最高だろう。次回もこのあたりについて書く予定。
【東海道本線・東海道新幹線・奈良線・山陰本(嵯峨野)線・湖西線・近鉄線・京都市営地下鉄烏丸線】京都駅下車徒歩10分 【市バス・京都バス】烏丸七条下車徒歩5分 など
2001/01/08
【番外】本年の京都とのつきあいかた〜極私的"Kyoto"計画昨年最後にも書いたが、私が京都を離れて、ついに1年以上経ってしまった。それに伴い、次第に京都の記憶も過去のものになろうとしている。これは本当に寂しいことだが、仕事は関西ではないのだし、実家も関西にあるというわけではないので時間が流れるということによりそうなるのはやむをえないだろう。しかし、京都に対する思いは今だ変わらないどころか、日に日に強くなっていく。これは、京都を離れたことによって増幅されたように思う。この気持ちが消えない限り、このコーナーも続くのだろうな、と思う。ネット上でも京都が好きな人はたくさんいるようで、クラシック音楽よりはメジャーな趣味と言えそうだ。そんな方にも笑われないような内容にしなければ、と思いつつ、京都の思い出も書き綴っていこうと思う。
それにしても、今年も京都に旅行が何度もできればいいな、と思う。昨年は3月末の出張、6月の旅行、9月の旅行ついで、11月の出張帰りと、時間的にはわずかだったが、4回も訪れることができた。今年はある程度行く場所を決め、新規の場所も訪問していきたい(去年も新規はずいぶん訪問したけれど)。そして、京都や関西にいる友人や知人を大切にしていけたらな、と思う。しかしこの両立が意外にたいへんで、両方しようとするとかなりハードスケジュールになる。贅沢な悩みなのかもしれない。いっそのこと京都で働ければ最高なんだけど、今の仕事を投げ出すわけにはいかないし、向こうで仕事にありつけるとも限らない。いつの日か、向こうに戻れることを祈って、常陸の国で今年もがんばるしかないな〜(´ー`)
2000/12/25
北野天満宮の”終い天神”(上京区)今日は、北野天満宮の”終い天神”だ。奉られているのは菅原道真、政争で九州の大宰府に左遷され、その死後、平安京に天変地異、飢饉、疫病などが流行り、その霊を鎮めるためにこの北野天満宮が作られたというのは有名な話だ。私も大学から近かったうえに1995年の春から1998年の春まではここからわずか徒歩5分の場所に住んでいたので、数えきれないほど訪れた。おそらく、京都の、いや日本の寺社仏閣中、訪問回数が一番多いのは北野天満宮だろう。
さて、北野天満宮では菅原道真の生誕日が6月25日、命日が2月25日だったことから毎月25日には「天神さん」と呼ばれる縁日が開かれ、毎月21日に開かれる東寺の「弘法さん」と呼ばれる縁日と並んでたくさんの人が訪れる。とにかくその日は人、人、人の大混雑、市バスも臨時便が大増発され、いつもは広く感じる今出川通も人の波の中を自動車がかき分けていく感じだ。しかし、訪れる価値は大きい。今でもこんな蚤の市のような、パワーのある縁日をやっているのは日本中でもそうは多くないはずだ。たこ焼き屋、おでん屋から始まって、古着屋、骨董品屋、香辛料、飴、あらゆる店が所狭しと屋台を並べている。どうしても欲しいというものは、ひょっとしたらないかもしれない、けれど、一日中見ていても飽きがこない。ここには、日本が失ってしまった何かがあるように思う。へたな海外に行くくらいだったら天神さんに行け!という感じである(笑)。
そんなわけで、北野天満宮や「天神さん」には馴染みがあるのだが、今日の”終い天神”には思い出がある。1月25日の1年最初の天神さんを”初天神”12月25日の一年最後の天神さんを”終い天神”と呼ぶのだが、去年の”終い天神”が私にとって、京都生活で最後に訪れた場所だったからである。1999年12月25日、私は前日の夜までに引っ越しの準備を整え、朝になり、古くなったふとんを粗大ゴミに出し、手伝ってくれるという友人を待っていた。大学時代同級生だったその友人は、卒業後2年近く経ったこの年の同じ時期にともに就職活動し、次の4月から京都で働く。卒業して2年も経つと、京都での顔なじみはすっかり減り、関東に就職してしまったり、実家に戻ったり、たとえ京都にいても無職という境遇のため、お互いに気まずく、出会うことはほとんどなかった。そんな中で彼が手伝いに来てくれるというのは、幸運なのかもしれない。その友人が来るまでには少し時間があるようだ。荷物はすでにダンボールに詰め込まれ、テレビも見れなければ読む本もない。そんな時、ふと今日が”終い天神”であることに気づいた。私はお礼も兼ねて、天神さんに行くことにしたのだ。まだ、朝9時頃だったからだろうか、まだ訪れる人は少なかったが、冬晴れのよい天気の日で、冷たい空気が凛として心地よかった。屋台の間を通り抜け、中門の階段を上がり、振り返る。たくさんの店が所せましと並ぶ参道。私は、葺き替え中の本殿をちらりと眺めながら、仮社殿に向かって、京都への感謝を述べた。少し名残惜しく思いながらも、もと来た道を引き返す。何か、今日で最後という気がしなくて、この日の景色を目に焼き付けておこうと思うのに、流れるように年の暮れの様子が通り過ぎていく。何度も降りたバス停、京福電車の北野白梅町駅、スーパー、銀行、マンションになってしまった銭湯、西一条商店街、エアコンを買った質屋、狭い一条通を物思いに耽る私の横を山越に行く市バスが通り抜けていく。辛い夜に、気を紛らわせるために行ったコンビニ、一人で買って食べた弁当屋を過ぎてしばらく行ったところを左に入ると1年と10ヶ月お世話になったアパートがある。部屋に入り、高く積み上げられたダンボールを見ると、やはり、引っ越すのだな、という実感が湧いてくる。一人でボーッとしていると、友人がやってきた。部屋を軽く掃除していると昼時になった。近所のお好み焼き屋で腹ごしらえをすることにした。ここのお好み焼き屋は安くてボリュームがすごい。6年前に京都に来てから、何度行っただろうか。相変わらずでかいし、この時期だというのに混雑している。友人と何を話したかは覚えていないが、お好み焼きの味と、店を出たときの「食いすぎた」という感じの友人の顔はいまだに覚えている。やがて、引っ越し屋が現われた。業者の人2人と、われわれ2人、合計4人もの男で作業を行うと、狭い部屋の荷物はあっという間に片付いた。トラックが過ぎ去った部屋には、何も残っていない。1年10ヶ月前の寒い日にこの部屋を見たときと同じようにすっきりとしてしまった。カギを締め、自転車を後輩に譲るため友人と西一条商店街を抜ける。後輩はいなかった。自転車を後輩の下宿の前に置き、自転車のカギと置き手紙をドアに張り付け、友人と二人でバスに乗り込んだ。友人に「この景色も今日で最後なんやな」などと話していると四条大宮に着いた。友人は「ほな、またな。」と、まるでいつもと変わらないような感じで別れの挨拶をいうので、こっちも「あ、ああ、今日はありがとう。」と言ってバスを降りる彼に手をあげた。バスは大宮通を一気に駆け下りて京都駅に着いた。私はそのまま立ち止まることなく、東京行の新幹線に乗った。
いささか散文的で、私的なつまらない文だがお許しいただきたい。1年経ったこの日でなければ忘れる一方だと思ったので書いてみた。いつか京都に戻る日が来ることを信じて書いてみたのだが。北野天満宮についてはまだまだ書きたいことがたくさんある。追々書いていこうと思う。
【市バス】北野天満宮前下車すぐ 【京福電車北野線】北野白梅町駅下車徒歩10分
2000/12/23
錦市場(中京区)〜後編前編を書いてから時間が経ってしまったが、久しぶりに錦市場の後編。今回は「錦小路」と呼ばれるようになった由来について。参考文献の丸写しになってしまうが、おもしろい事例なので挙げておこうと思う。平安京ができた当時、錦小路は「具足(ぐそく)小路」と呼ばれていたそうだが、そのうち訛って「屎(くそ)小路」と呼ばれるようになってしまった。これを聞いた時の後冷泉天皇は「あまりきたなきなり」と言って、天喜2(1054)年に「錦小路」と改めさせたと言うのだ。宇治拾遺物語に載せられているというのでまんざら冗談でもなさそうだ。現在の姿が、「京の台所」と呼ばれるほど食料品を扱う店が多いだけに、笑えない気もするが、食べてしまえばみな屎になるわけだし、妙な因縁のようなものを感じる。
さて、この時期のように混雑する錦小路を見ると、京都の商店街は元気なんだな、と感じられる方も多いと思うが、他の都市同様、商店街は少しずつ脅かされている。私が1994年に京都に引っ越して以来だけでも、北大路ビブレ、天神川のライフ、京都駅ビル、醍醐ショッピングセンターなど、大型店が京都の辺縁や郊外にできはじめた。今年の秋には高野に総合ショッピングセンターがオープンしたし、伏見区や西京区のような地域ではロードサイドに量販店が林立している。あの風景は京都らしさなど微塵も感じさせない、画一的な姿だ。錦小路のような有名な商店街はいいが、洛中でも少し外れた場所にあるような商店街は付近に大型店が1軒できればあっという間に客を奪われ、また1軒、また1軒と店じまいし、やがて廃虚となる。京都の商店街組合の組合員数は今年も減っているというし、会員に30歳以下が1人もいないということで、高齢化も始まりつつある。
もちろん、京都の商人もそこでおろおろするばかりではない。日本で初めてデビットカードを導入した中新道商店街や、修学旅行生に1日店員体験などの企画をする商店街など、客離れを食い止めようとしている。しかし、その程度では事態は好転しないようで、なかなか厳しいようだ。私も6年京都に暮らし、商店街を使ったことは数えるほどしかない。もう少し、若者や学生が入りやすい、あるいは使いやすい商品を置くようにしてはどうかという気もする。だが、問題は、あの狭い京都に自家用車をどんどん入り込ませたことにあると思う。車で混雑したところに行くよりも郊外の店に行こう、と思うようになるのは自然なことではないだろうか?せめて洛中は自動車数を制限し、公共交通機関を充実させ、税制なども優遇すればしだいに改善すると思うのだが。それが簡単にいくようだったらどこの商店街も苦労してないか、とも思うけれど。
【阪急電鉄京都線】河原町駅または烏丸駅下車徒歩10分 【京都市営地下鉄烏丸線】四条駅下車徒歩10分【市バス・京阪バス】四条高倉下車徒歩5分など。
2000/12/05
錦市場(中京区)〜前編そろそろ京都の紅葉の季節も終わる。"Kyoto"でも、そろそろ『シリーズ・隠れた紅葉の名所』をひとまず終了にしたいと思う。来年紅葉特集を組むときは、もう少し有名なところを取り上げていこうと思う。また紅葉の季節に京都を訪れられれば一番よいのだが、それは今の仕事の状況からいうとかなり難しそうだ。
さて、師走ともなると、京都にも一気に冬が訪れ、年末年始の準備が始まり、せわしない気分になる。最近では京都も他の都市と同じような都会になっているので、普通の生活をしているとそのことに気がつきにくいが、繁華街や商店街を訪れたとき、そのことを実感する。特に、昔ながらの京都の台所である錦市場では年の暮れを体現できる。大丸京都店の錦小路口から東に寺町通まで約400メートルの間あらゆる商店が並び、活気に溢れている。このような場所では私のような学生風の人間はただただ圧倒されるばかりだ。一人で行ったときほど、京都の人と自分の間に距離を感じてしまったことはない。ただ、「京都の人は多くの人がこの市場で買い物をしている」と思っている人も多いようだが、実際は京都には数多くの商店街があり、場所によっては錦市場に負けないくらい大きい商店街もある。錦市場は多少は商圏が広いものの、私のような洛西や洛北に住むものにはそれなりの近所の商店街があるので、そのことが距離を感じてしまう原因であるのかもしれない。そういう意味では、私が京都に住んでいる頃も、錦小路を訪れるときは観光客気分であった。
師走の錦小路の光景は、実際に訪れるしかあの熱気を感じることはできないと思うが、少し書き綴ってみれば、狭い通りにそれぞれの店主に対して客が値段交渉をやって立ち止まっていて、その後ろには後ろの店の客が商品を選んで、それを囲むように客が待ち、そんな状況のところを別の目当ての店に向かう人々がすり抜けようとする。中に店の商品に目をやろうと立ち止まる者あり、買い忘れたものを買いに戻る者ありで魚貝や漬物や乾物の匂いに人の熱気が加わり、独特の匂いを発している。これだけ狭い通りに多くの買い物客が集まるのは錦市場が最高ではないかと思う。私などはその様子を眺めながらも人の流れにただただ流され、気がつくと錦市場を抜けてしまっていたということが何度かある。
さて、それだけ混雑した錦市場も夕方6時を過ぎると、ぱったり人通りが減り、7時を過ぎる頃には、ほぼすべての店がシャッターを下ろし、静寂が包む。あれだけ通り抜けるのに苦労していた通りも、見る影もなくあっという間に通りぬけることができるようになってしまう。このギャップがたまらなく「市場」というものを表わしているような気がする。古今東西、常設仮設を問わず、市場の賑わいと、それが終わるときの一転、すなわち活気が一瞬にして静寂に変わるという姿には、清々しさを感じるとともに、一抹のさみしさも感じる。今では日本でそうした光景を見かけることも少なくなったと思うが、京都ではこの錦市場や、天神さんや弘法さんの縁日などで、今でも見かけることができる。そんな中に、人間の生活を感じずにはいられない。
後編は錦小路の由来や最近の商店街の事情を書こうと思う。
【阪急電鉄京都線】河原町駅または烏丸駅下車徒歩10分 【京都市営地下鉄烏丸線】四条駅下車徒歩10分【市バス・京阪バス】四条高倉下車徒歩5分など。
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