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2001/04/06

みちのく一人旅 〜 ある街の栄枯盛衰


1.杜の都へ。

青春18きっぷを就職後初めて使った。友人が共同で買わないかということで、私は2日分使うことになったのだ。さすがに働きはじめて5枚は使えない・・・(苦笑)どこに行こうか迷ったが、東北方面に行きたい、ということだけは決まっていた。しかし1泊2日、広い東北の果てまではとても行けそうになかった。それにある程度ゆっくりしたかったのでただ遠くに行って乗ってばかりというのも気が引けた。

朝一番のバスで駅に向かい、常磐線に乗り込む。上野発の8両の普通列車は土曜の朝ということもあってさほど混んでいなかったが、北に向かうに連れてさらに乗客の数は減っていった。いわきからは2両のワンマンカーとなり、座席も横に長いロングシート。いささか雰囲気がないが、これがJR東日本らしいところである。原ノ町からはかつて急行に使われていた車両が仙台まで行く。朝が早く朝食を取る暇もなかったので原ノ町駅で買った「そば弁当」を車内で開ける。「弁当」といってもざるそばが入っているだけというシンプルなもので、朝食にほどよかった。

仙台に着いたのは12時を少しまわった頃だった。東北最大の都市にして「杜の都」の名を持つ仙台には、小学生の頃旅行で訪れていた。大きな街にも関わらず美しい街で、あの時以来少し憧憬の念があった。あれから2度ほど仙台で途中下車したことがあったが、あの感動はなく少し残念な気持ちでいた。駅前から中心部である一番町へと向かい広瀬通を歩く。まだ3月下旬ながら今日は暖かく、上着を着ていると汗が出るほどだ。空が澄みきっていることもあってか街が輝いて見え、久しぶりにあの頃「杜の都」に対して持った気持ちがよみがえってきた。デパートに入って仙台かき船の「牡蠣の蒲焼き」を買う。焼き鳥のように3つの牡蠣が串に刺されており、チルドパックに入っている。日本酒のつまみによし、ご飯のおかずによしの牡蠣の風味を生かした逸品らしい。続いて一番町のサンモールと呼ばれるショッピング通りをウインドーショッピングしながら歩く。

ここで恒例となっている(?)CDショップ・リポート。仙台には最近多くの外資系CDショップが進出しており、街を歩く人も、それらのショップのバックを提げているのをよく見かける。残念ながら地元資本の大きな店を見つけることはできなかったが、紹介してみたい。

1.Virgin Mega Store 仙台
仙台駅ビルの大部分をなすエスパルの1階にある。最近オープンしたらしい。クラシックの輸入盤は新譜のスペシャルプライス品とその残り、あとは廉価のARTE NOVAやNAXOSがある。

2.HMV仙台
仙台駅前のビブレ6階にある。ビブレ自体が手狭&建物の老朽化があっていまいち押しが弱い。

3.TOWERRECORDS 仙台
一番町のフォーラスというファッションビルの8階にある。クラシックコーナーはさほど強くないが都市の規模を考えるとこれくらいか。

4.HMV仙台一番町
フォーラスの斜め向かい、サンモール一番町に面した店。近年オープンしたらしい。1・2階が売場で、ショッピングセンターなどに入っていない独立型のお店。外観もHMVらしさを出していて、いかにも外国の大都市にありそうなCDショップといった店構えがいい。(ウィーンのEMIショップをHMVらしい若向きな雰囲気にしたような感じ)クラシックの品揃えも4店のうち最高だろう。結局ここで買い物。

どうやらHMV仙台一番町店の一人勝ちといったところだ。まだまだ個性的な地元資本の店や中古屋を探したいが今回はCD漁りに来ているわけではないのでまたいつかの楽しみにとっておこうと思う。仙台の「番ブラ」(一番町をぶらっとすることを言うらしい。銀座の「銀ブラ」、京都河原町の「河ブラ」に並んで有名?なわけないか・・・)を堪能しすぎて昼食を食べる時間もなくなり、ふたたび仙台駅に向かった。(本当は牛タンでも食べたかったが、結局駅そばでガマン(;-_-)


2.夕暮れの北上川

3時近い列車で東北本線を北上する。一ノ関行の普通列車は6両(またも全車両ロングシートという暴挙!)だが、小牛田から先は前寄り2両しか行かない。仙台の街を抜けると、東北らしい田園風景がはるかに広がっている。ここから田尻という駅まで行き、そこからバスで目的地の登米町を目指す。登米と書いて「とよま」と読む。登米(とめ)郡登米(とよま)町と、郡名は「とめ」と読むらしい。田尻の駅では、多くの人が降りたが、みな三々五々に散って行ってしまい、残された駅で遊ぶ親子と、談笑するタクシー運転手たちを西に傾きはじめた太陽がゆっくりと照らしていた。駅前からのバスは地元のおばあさんと私の二人だけだった。このあたりの風景はだいたい決まっていて、しばらく田園地帯が広がると、小高い丘を越え、ちょっとした集落と川があり、ふたたび田園地帯が広がる、といった調子だ。途中米山町付近でもう一人おばあさんが乗り込んだ。二人の老婦人は知り合いらしく、「今日はどちらへ?」と挨拶を交わした後、世間話に花を咲かせていた。やがて二人も降り、私1人だけになった。太陽も山陰に隠れ、運転手も見かけない若者一人を乗せているのを不安に思ったのか、バックミラー越しに「どこまで行くのだ?」と言いたげにこちらをちらと見る。いささか居心地が悪くなった頃、バスは登米の町に入った。私は街の中心部と思しき九日町のバス停で降りた。時計を見るとバスが駅前を出てから小一時間経っている。長旅だった。

登米の街は、ある程度予想していたことだが、中心部というのに寂れていた。年度末ということもあり、やりかけの道路工事で、車の行き違いがせいいっぱいというほどのメインストリートもアスファルトが剥がされ、砂埃が舞っていた。ガイドブックによるとこの近くに土産物があるのでここで明日の情報を仕入れようと思っていたのだが、すでに閉店していてなしのつぶてだった。洋風建築として保存されている旧登米警察署の西側の土手を登り、北上川を眺める。太陽はすでに沈み、寒々とした北上川の風景を眼前に、北風がピュウピュウと吹き付ける。川とは反対側の、登米の街並みを見るが、あまり人影もなく、くたびれた家並みが黙っているだけだった。期待はしていなかったが、遠くに来たことを実感せずにはいられなかった。その後、遠山の里という、第三セクターらしき観光館で土産物を眺めながら明日の資料にすべく登米のパンフレットをもらい、大手前の古くからの宿に投宿した。

宿に予約した者だと伝えると、女将と大女将(正確にはおばちゃんとばあちゃんだ)が「お待ちしていました」と、2階の部屋に案内してくれた。部屋はたくさんあったが、今晩の客は私のほかにはもう一組しかいないという。少しくたびれてはいるものの、8畳+縁側のある部屋に通されると、私は楽な格好になり、窓から街をながめてゆっくりとした。家族と共用らしい小さな風呂に入り、夕食を待つ。「登米名物の油麩を使ったとよま丼ととよまはっと(すいとん)が食べられます」と書かれていたのでそれを期待していたのだが、注文していなかったためか、刺し身や煮物といった、普通の夕食が出てきた。それを食すとテレビを見たり、廊下の有名人のサインを見たりしていたが、朝が早かったこと、そしてのんびりした雰囲気にやがて寝てしまった。


3.本当の便利さ

翌日もよく晴れた。朝食を摂り、宿の人に礼を言って街歩きを始めた。まず、バスターミナルに行ってみる。ここは、昭和43年まで仙北鉄道という軽便鉄道の終着・登米駅だった。案内所は当時の駅舎を使っている。ホームはそのままバス停になっていて、ちょうど鉄道が来ていた場所にバスが停まっていて、バスの車庫も鉄道のそれとすぐにわかるものだった。しかし、明らかにその場所に活気はなく、何よりも、街の人からも存在を忘れられたかのようにあたりの民家と同化しているのがさみしかった。かつては賑わったであろう待合室にかつて使われた鉄道用品や、額に入ったセピア色の写真が埃をかぶりながらも往時の活気を伝えていた。開業のときの活気溢れる様子、廃止のときの花電車、廃止後線路上を走るバス・・・。廃止後もバスの停まるホームには人が溢れ、今の様子が嘘のようだ。

「駅前通り」を引き返し、旧登米高等尋常小学校校舎を訪れた。明治中頃に建てられた、コの字型の瀟洒な2階建て洋風校舎で、壁は白く、瓦屋根は水色のようなグレーだ。2階の中心の校長室はすべてを見渡せるバルコニーがあり、バルコニーの白い欄干が柔らかい陽射しに照らされて優雅な様子を醸し出している。中は登米の歴史や、教育関係の資料が展示されるとともに、当時を復元した教室などがあり、想像以上に内容が濃い。先ほどの仙北鉄道の資料や写真もあり、「登米から東北線瀬峰駅までは3時間を要した」とある。瀬峰まで約二十数キロ、昨日のバスで瀬峰の隣駅、田尻から小1時間だったことを考えると、自転車並みかそれ以下のスピードだったのだろう。廃止されてバスになったのもうなずける。ほかには北上川に蒸気船が走っている写真、九日町に多くの人々が買い物している写真、三日町の祭りの写真などがあった。2階の二教室分の広さのある裁縫教室に入り、窓から現在の登米小学校を眺める。日曜の誰もいない近代的な校舎を、これまた人のいない明治時代の教室から眺める。不思議な時の流れを感じる。明治時代にこれだけの立派な校舎があったということはこのあたりもずいぶん栄えたのだろう。そんな瀟洒な校舎から、現在の、どこの街にでもある校舎を見ていると、日本中の地方が、均一に便利になっていくことはいいことなんだろうけれど、本当の便利という意味はどういうことなんだろう、と思う。美しい校舎を出ると、私は旧水沢県庁、萱葺の武家屋敷を見て、やはり明治の近代建築である旧登米警察署を見学した。旧署内は警察博物館として使われている。2階の玄関の上の部分はバルコニーになっており、北上川の船着き場を直接監視でき、また、角地ということもあり、繁華街であった九日町の通りと中町通を同時に見ることができる。ここに立つと、往時の登米の様子をどことなく想像できるような気がする。

今となっては繁華街と呼ぶには無理がありすぎる九日町を通り、小高い登米城址にある登米懐古館へ向かう。江戸時代二万一千石の城下を治めた登米伊達氏の鎧兜などが飾ってあるが、そう珍しいものでもない。すぐに出てきたので受付のおばさんが話しかけてきた。「この町はご覧の通り、今ではこんなですが、明治の頃は北上川の水運で栄えたんですよ。それで、県庁や立派な小学校も建って・・・。でも、それにあぐらをかいていたんでしょうか、鉄道をひくっていう話もあったんですが、水運全盛でそんなものはいらないと。結局先を見る目がなかったのかもしれませんね。」私は仙北鉄道のことを話したが、「ああ、あれは鉄道というより馬車(鉄道)のようなものでしたから・・・。狭い町ですが、ゆっくり見ていってください。」と、悠々と流れる北上川を眺めながら話してくれた。ふたたび九日町に戻り、昨日閉まっていた土産物屋に入る。ここのおばちゃんが商売上手で、私は餅米と小麦だけで作った「太白飴」と「油麩」を買った。どちらも登米の名産で、素朴ながらも質実な土産だ。ちょうど昼時、おばちゃんも、その奥にいる八十過ぎのおばあちゃんも「ここのすぐ前にあるお茶屋で油麩丼を食べていきなさい」と言う。あまりに勧めるので、あの店の関係者ではないかと疑いたくなったが、昨日宿で食べられなかっただけに、ここでしか食べられない油麩丼も捨て難い。ここのもう一つの名物らしいうなぎにも惹かれていたので、とりあえずどちらにしようか北上川のほとりで考えることにした。

河原は陽光を受け、すっかり春らしくなり、昨日来た時の薄暗い様子はなかった。かつての船着き場の跡だろうか、川の波打ち際まで出て穏やかな川を眺める。うなぎもいいが、ここは登米でしか食べられないものを食べるか、と思い、件の茶屋に向かった。茶屋には客はおらず、油麩丼と近くの伊豆沼で採れた川えびを使った「えびもち」のついた茶屋定食というのを食べることにした。料理が運ばれてきて、二口三口食べたところで、先ほどの土産物屋のばあちゃんがやってきた。「あんた、やっぱりここに来たか」、というばあちゃんの顔を見て、やっぱり関係者だったか!してやられた!と思ったが、不思議に悪い気はしなかった。ばあちゃんは、私に話しかけているとも独り言ともつかない様子で話しはじめた。「この町は何にもねぇけど・・・。テレビやら雑誌やらでうまぐ撮るもんだから、みんな遠くから来てもらって。がっかりしたでしょう?これでも昔は県庁もあって、裁判所もあって、あんな学校、3つもあったんだ。でも取り壊してしまって。昔はよがったけど、もうどうにもなんね。」そう言うと、知らないうちにどこかに消えてしまった。色白でいながら肌艶はよく、昔は別嬪さんだったのかもしれない。油麩丼は美味しかったが特別にまた食べたいと思うほどではなかった。それよりも、「えびもち」が絶品だった。白いつきたてらしき丸餅に塩茹でされた川えびがまぶされているだけなのだが、一口食べると川えびの塩味が餅に絡み合って、何とも上品な味わいになる。川えびにはまったく臭みがなく、餅はさすが米どころと言わしめるほどにうまい。単純なのに洗練された味わいがある。3個も食べられないと思っていたが、あっという間に食べてしまった。さきほどのおばあちゃんも、おそらく、若い頃は賑やかで、何一つ揃わぬもののない登米の街中で育ち、自分が老いていくのと同時に町が衰退していくのを見てきたのだろう。どこか、この町と、ばあちゃん、えびもちの味が微妙に重なり合って、不思議な気持ちにさせた。

茶屋を出ると、帰りのバスの時間が近づいていた。帰りはきのう来た道とは反対に、登米大橋を渡り、北上川沿いに下り、気仙沼線の駅へと向かう。北上川沿いを下り、登米の町が遠くなるにしたがってあの町が妙に恋しく思えた。あと数年すれば、今より観光化されてあの町も少しは景気がよくなるかもしれない。しかし、その頃にはあのばあちゃんもえびもちの味も、気さくに話しかけてくれる町の人もいなくなっているような気がして、そして次来る時はいつなのかもわからず、一人感傷的になって気仙沼線の列車に乗り込んだ。


参考 :

登米町商工会のページ ・・・ 登米観光の準備に欠かせない。登米の主要な観光スポットや店舗・食事処・旅館を写真付きで紹介している。

登米町のページ ・・・ こちらも最近開設ながら充実。町の紹介など。




2001/02/28

人は過去と決別すべきか?

久しぶりに京都に出かけた。二日目の夜、私がアルバイトしていたところのメンバーの一人が結婚し、ささやかなパーティーをするというので出席した。実は彼女は私がバイトを辞めてからしばらくしてからバイトを始めたので、面識はない。当初、出席するつもりではなかったのだが、一緒にバイトをしたことがある人から誘われ、幹事の方も歓迎してくれるというので出席したのだ。

四条通に面した地下にあるその飲み屋には十数人が集った。私とバイトをしていた時期が重なっていたメンバーはわずか3人ではあったが、えもいわれぬ懐かしさがあった。あとのメンバーは見たことがある程度、半数以上は初対面だった。私も顔見知りをするほうで、ほとんど話すことができなかったため、居心地がいいとは言えなかったが、出席して後悔はしていない。こんなこともなければともに働いた数人の人とも会うことはなかっただろう。不思議な空間の中を過ごし、パーティーはお開きになった。

二次会に行くメンバーと別れ、一緒にバイトした女の子二人と暗くなった錦小路を歩いた。今はもう就職していて、仕事に追われる日々が続いていると言う。あの頃はもっと屈託なく笑って話せたように思うが、住む場所も仕事も環境も違う、どこかぎこちなさを感じた。もう、学生ではないのだ。学校が違う、回生が違う程度の違いではない。2年、いや3年の時間と距離の溝を埋めるのに3時間という時間は短かった。今日のような日でも、電話でも、電子メールでも、みんなで会う約束をして、みんなが「会おうね」と約束しても、何か現実味がない。みんなそれがかなうことを望んでいながら、その一方でそんな会が成立しないこと、出会ったところで今日のようにどうも年月の溝を埋めることができず、ぎこちない時間が過ぎるのならばいっそもう会わないで思い出にしまっておきたい・・・さまざまな思いが交錯する。ひょっとしたら、過去の知り合いとは『去る者日々に疎し』の如く決別し、新しい身近な人たちとの親交を深めていくべきなのかもしれない、と思ってしまったりもした。飲み会が終わってからの1時間はさっきのパーティー以上に不思議な時間と空間だった。四条河原町のOPAで閉店までの短いときを過ごし、「またね」といって別れる。私はどこか脱力感を禁じ得ないままバスに乗って宿に戻った。

風呂から上がり、宿で炬燵にあたりながらテレビを見ていると、携帯電話が鳴った。その相手は、バイト時代の同期だった。彼は同じ大学の法学部で同学年、体育会系のサークルに入っていて、私とは正反対のような生活だったが、彼の社交的な性格のお陰か、バイトを辞めてからも、卒業してからも、私が京都を離れてからも時々電話があった。今は京都にある会社に勤めている。私が今、京都の宿にいることを伝えると驚いた様子だったが、明日は仕事とのこと、とても会えそうにない。彼に今日のパーティのことを話すと残念がった。仕事のこと、人生のこと、そのほか他愛ないこと、結婚のことなど話した。最後に彼が言った。「気がついたら、年賀状で”私たち結婚しました”っていうのはやめてくれよ。ちゃんと呼んでな。」やはり男友達のほうが音信不通が続いても長続きするな、と思いながら、さっき錦小路で考えたことはやはり考え過ぎで、誰もが本当は「会いたい、溝を埋めたい」と思っているのではないのかな、と思った。ただ、今それを行うのはタイミングとして適切なのかどうかわからない。私は正月の高校の同級会での居心地の悪さを思い出したのだ。高校時代仲がよく、進学後もよく連絡を取っていた友人がどうも変わってしまっていたのが原因のように思う。また時期が違って会えば、話は変わってくるのかもしれない。そういえば高校の同級会で電話番号やメールアドレスを交換したメンバーもそれっきりだし、しばらく時間を置いたほうがいいのかもしれないと思ったりもする。

何ともまとまりがなくなってしまったが、この問題は、お互いに信じていればきっと幸運がやってくるけれど、どちらかがあきらめると信じていた他方が言いようもない失望感に襲われるということだろう。それが怖くてお互いに信じることをやめてしまう。そう考えると、やはり誰もがあの頃に帰りたいと思いつつ、思い出に依存して生きていくより現在を前向きに生きていきたいと思い、次第に過去と決別していくのではないだろうか。

思い出は思い出として温存し、歳をとって、生活と時間にゆとりができ、すべてが許せるときになったらようやく溝を埋めることができるのか?結局結論は出るわけもなく、駄文を書き連ねる夜だった。(一部変更あり)



2001/01/08

ゆく世紀、来る世紀、そして今年はどんな年に?

20世紀が終わり、21世紀がやってくる。いつもと変わらない年末年始といってしまえばそれまでだが、後世のために(?)日記風に書き綴ってみることにした(笑)。

12月28日(木曜日)
この日で20世紀の仕事は終わり。というか、1年しか働いていないので「今世紀」なんていう仰々しいものではない。いつものように淡々と仕事をこなし(こなせていないというウワサもある)、簡単な挨拶を済ませて帰宅。何ともあっけない終わり方に驚いてしまった。

12月29日(金曜日)
部屋の掃除。といっても、結果的には散らかってるものたちを押し入れに入れたり、積み重ねて床が少しでも見えるようにしただけになってしまう。デザインだけ決めておいた年賀状を印刷し、住所とメッセージは手書きで完成させる。かなり字が下手になった気がする。というか、職場の人への年賀状は半ば虚礼なので、気持ちが表れて、かなりきたない字だ。郵便局に行って投函。今年最後の平日なので郵便局はかなり混んでいた。夜は職場の同期と忘年会と称して鳥鍋をつつく。あー、このままでいいのかなぁ、なんて話しつつ、夜は更けていく。その後、自分の部屋へ戻り、明日から出かける準備。そんなこんなで、部屋はまた散らかり、意味ないじゃん(苦笑)。

12月30日(土曜日)
早朝に自分の住む街を脱出する。上野から臨時特急で高崎へ。この街でCDの買い納めを敢行。高崎は小さな街だが、CDショップはなかなかいい感じ。さすが群馬交響楽団(群響)の本拠地だけある。2001年は群響も聴くことを誓う。まず、新星堂高崎店。アンセルメの廉価盤が出ているのでそれを3枚、TAHRAからフルヴェンのCD4枚組(実は、タワーではここより700円以上安く売っていた!(T_T)、Berlin Classicsからウィーン響の100周年CDが出ていた(これは安め)のでそれを、以上の品を購入。SONY CLASSICALとEMIのフルヴェンのカレンダーをサービスでつけてくれた。続いてVIVRE内のタワーレコードへ。半額セールをやっていたのでヤンソンスのショスタコ5番(1145円)、セル&フィッシャーのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集3枚組(1545円)を購入。安いからといって買い過ぎはいけませんねぇ。夜は、大切な方と忘年会。かなりおなかいっぱいになってしまった。

12月31日(日曜日)
実家に帰る。今世紀最後の晩餐を済ませ、紅白も知らないうちに終わり、新世紀を迎える。

1月1日(月曜日)
久しぶりに初日の出を見る。実家から見る初日の出はなかなか美しい。午後からは親戚たちのいる家へ。一日中飲み食いしていた印象だ・・・

1月2日(火曜日)
実家に戻る。夜は高校時代の同級会。実は初出場で、ほとんどの人が7年ぶり。そこそこ楽しかったが、7年の時間を埋めるまでにはいたらず。女の子はずいぶんきれいになった人もいるし、男でも性格が変わってしまった人がいるとちょっとさみしかったり。かえって何も変わらない人はほっとしてしまう。飲んだ後、夜の高校を一周して解散。久しぶりに会ったけど、あの心のすきま風は何なんだろう?

1月3日(水曜日)
大学時代の友達が遊びに来る。京都で2年前に別れて以来2度目だ。駒ヶ岳ロープウェイに乗りたいというので、極寒・強風の中、ふもとに車を乗り捨て、バスとロープウェイで3,000メートルの高地へ。気温はマイナス13度、山小屋のそばにある神社で初詣。雪で埋もれていて、お賽銭も凍りついてしまった。まさかこんなところで初詣になろうとは。下山後温泉へ。かなり気持ちよろし。友人は9時頃帰る。

1月4日(木曜日)
なんか体調が悪くなる。体を冷やしたことが原因らしい。

1月5日(金曜日)
岐阜の友人宅へ。友人の仕事が遅くまでなので、名古屋に出て買い初めしつつ時間潰し。この時、栄のタワーレコード買ったのが21世紀の聴き初め〜オーマンディのヴェルレクである。夜、友人宅に。彼の部屋にあった「深夜特急」のビデオを久しぶりに見て、海外への思いが再燃する。聞けば彼はインドに行く予定という。仕事を辞めて。「深夜特急」によれば26歳がラストチャンスだというが、彼はその26歳だ。私は、と言えば、やはりインドはやめておこうと思う。せめてトルコか、ギリシャあたりからだろうか。

1月6日(土曜日)
岐阜県の明知町へ。友人は仕事が終わりしだい合流ということで、先に明知町に向かう。第三セクターの明智鉄道に乗っていったが、駅や信号、国鉄時代のままで懐かしさを感じた。明知町は街の中心部を大正村として観光客誘致を進めているようだが、坂や洋館がどこか函館を感じさせるような街だった(もちろん、個人的感想である)。しかし強風が吹きすさび、とにかく寒い。明智光秀の学問所などを見ていると、友人から電話が入り、駅前で合流。日本一の勾配の駅という飯沼駅に車で乗り付けるために友人の運転で飯沼駅へ。しかし、路面凍結が激しく、車が横滑りなどしてかなり怖かった(^_^;)。続いて昔懐かしい街並みの城下町・岩村で松浦軒本店のカステラ(これが、さっぱりした甘さでうまい。1本わずか390円)、「女城主」の酒蔵を見学。寒波が来ているようで、とにかく寒い。ということで花白温泉という温泉に入る。そんなに広い温泉ではなかったが、冷えきった体があったまった。寒天ラーメンという珍名物を食べ、友人の家に戻る。

1月7日(日曜日)
友人の家を出て、東名ハイウェイバスで東京を経由して自宅に戻る。

ざっとこんな調子だった。さすがにちょっと疲れた。さて、今年のこのページの目標及び抱負。それは2001年4月を目標に、このページの一般公開をするということ。"Kyoto"関連では、京都を離れて丸1年が経ってしまったこともあり、しだいに記憶が風化しつつある。しかし、京都に対する憧れや魅力というのはますます強くなるばかり。そんなわけで京都旅行を今年も何度かはしたい。"Musik"関連では、コンサート・CD問わず「聴きたいものを聴く」ようにしていくのは今年も変えないようにしたい。それから、知っている範囲でCDショップ案内をできれば、と思う(以前書いた吉祥寺のように。高崎も今回やってしまったも同然?)。また、"Essay"のほうは、こんな調子でやっていこうと思う。それでは、今年もどうぞよろしくお願いします。



2000/12/11

音楽を聴きたくないとき

音楽を聴きたくないとき、というのがある。聴きたくない、というか、聴いても身が入らないというのだろうか。CDをプレーヤーに入れて、再生しても数分で嫌になる。この曲は聴きたくないのかな、と思って他のCDを入れても、たいてい結果は同じだ。

思うに、音楽を聴く、という一見受け身のようなことにも、実はずいぶんパワーを使っているのだと思う。以前、京都でドヴォルザークの「新世界より」を生で聴いたときと、やはり京都で井上道義の京響常任指揮者引退のマーラーの5番を聴いたときの2度、終演後バス停に向かい歩いていたのだが、どうにも気分が悪く、その夜寝込んでしまった、ということがあった。他にも寝込むまではいかなかったが、コンサートの後、体調が優れないということが何度かあった。そういった経験を通してなんとなくわかったのだが、コンサートには自分が思っているよりも集中力が必要で、そのぶん体力も消耗している、ということである。「コンサートには体力がいる」とわかって行くぶんにはよいのだが、それがわかっておらず、体調の優れないときに行っていたことが原因だったように思う。「クラシックはBGM」と思っている人には少し信じられない話かもしれないが、実際のところはそうである。近年流行っている「癒し系」や「アダージョ○×」といった音楽は聴いていてつかれることがない。もっと言えば、流していても流れていなくても同じだ。私は流れていないほうが落ち着くのだが(苦笑)。多くの人が、集中して聴く必要のないこの手のCDは正確にはクラシックとは言いにくいかもしれない。まさしく「イージー・リスニング」だ。そういったCDが流行って、クラシックCDが売れないというのも、このことを考えるとなんとなくわかる気がする。

では、音楽を聴きたくないときはどうすればいいのか。ははは、当たり前ですが、聴かなきゃいいんですね。私のように毎日音楽を聴いていて、家に帰ってくると真っ先にCDプレーヤーをつけ、寝る間も惜しんで音楽を聴いていると、せっかく時間があるのに、聴かなきゃもったいない!という強迫観念があって、何とか聴こうとしてしまう。楽しむために音楽を聴くのにこれじゃ、本末転倒。聴きたくないときは、気分転換に出かけたり、風呂にでも入ったり、それもする気がないほど疲れているのならば何もしないでのんびりするのが一番ですね。



2000/11/26

晩秋の武蔵野・吉祥寺

先日(11月23日)、クリスマスプレゼントの下見をしてくるのとともに、CD屋でものぞいて来ようと、東京に出かけた。京都から今住む街へ引っ越してから、毎月2〜3回は東京に出かける。というのも、私の街は計画都市というやつで、商店街とか、アーケード街というのがない。合併を繰り返したとはいえ、人口17万人にもかかわらず、似たような大規模店ばかり郊外に林立し、中心部にはちょっとした百貨店とスーパーがある程度だ。CDショップは石丸電気があるが、クラシックは売れ行きが悪いようで、かつてはフロアの半分以上を占めていたというクラシック売り場は今やフロアの2割にも満たない。さらに、店の少ない街なので、出かけた先々で職場の人に出会う。話したことはなくても職場で見かけた人が必ずいる。こっちが気づいていなくても、翌日職場で「いや〜、昨日100円ショップにいたねぇ。」とか言われてしまう。100円ショップくらいならいいが、あまり人に見られたくない時だってある。そんなこんなで元々出かけるのが好きな私は、休日ともなると付近の大きな街に出かけるようになった。が、半年ほどして気がついてしまったのだ…このあたりに大きな街なんてなかった!県庁所在市は私の街といい勝負、隣県の都市も、そこそこだったが、何と言っても時間とお金がかかる。結局、それらの都市も東京も運賃的にも、時間的にも似たか寄ったかだった。そうなると、都市として深みと、可能性がある東京に行くようになるのは当然だった。

東京では買い物は新宿がメイン、有楽町から銀座方面、また池袋や渋谷といったほうにも足を伸ばす。行くCDショップは秋葉原、御茶ノ水、新宿あたりが多い。しかし、今回は少し趣向を変えてみた。東京から中央線快速に乗り、いつも降りる新宿を過ぎて、吉祥寺まで行ってみた。吉祥寺、かねてから何か魅力を感じていた。帰省の際、特急から窓越しに見かけたり、中央特快で流れる車窓としてこの街を見ていた。

駅の改札を抜け、混雑した駅ビルから外に出る。この街の第一印象は、なんかごちゃごちゃしている、どこか懐かしい、それでいて若者が多く、すっきりとしている…という取り留めのないものだった。まず、近鉄百貨店東京店へ。私は学生時代、京都の近鉄百貨店でアルバイトしていた。近鉄百貨店といえば関西ではそこそこ名が知れていたが、東京に店があるということを知っている人はほとんどいないだろうし、知っていたところで行こうとも思わないだろう。私も、アルバイトをしていなかったら東京店があるなんてことは知らなかっただろう。店は想像以上に洒落ていた。1階の喫茶店あたりは、なんとも言えない落ち着きがあった。しかし、これといっておいている商品に魅力がないのも確かだった。ふと、たて看板を見ると「この度、近鉄百貨店東京店の営業終了に伴い…平成13年2月20日を以って…」そうか、ここも閉店か。阪急百貨店大井町店が閉店したのは記憶に新しいが、また関西資本の百貨店が店じまいとは、何かさみしいものを感じた。

この街の中心部には伊勢丹、東急、パルコなどの大型店があるのだが、どこも建物が少し古い。後になって気づいたのだが、この街は、1980年代の雰囲気をそのまま残しているような気がした。私の中では1980年代は新しいもののように感じていたのだが、こうしてみると、たしかに古い。しかし、それは1970年代のそれとは違う、どこか冷たさのある雰囲気だった。伊勢丹裏の寺院を見ながら、ちょっぴり京都のことを思い出したりしてタワーレコードに向かう。タワーレコードはメイズ・ワンビルという少し古いビルの2・3階を占めていた。私は、このビルの雰囲気が気に入った。どこか洋風で、親しみを感じるものがある。そんなに古くないので、文化遺産ということもなく、あと何年か後には建て替えられるのだろうが、このまま残しておきたい、という気がした。ちょうど、京都の三条通の洋風建築を見ているときの気分と似ていた。外に出て、通りの名を見ると「西三条通」とある。何か、笑ってしまった。

さて、吉祥寺のCDショップ情報だが、街の規模からすると豊富だ。クラシック取扱店に限るが、並べてみよう。

1.タワーレコード 吉祥寺店…先ほど述べた通り、メイズ・ワンビルの2・3階を占める。クラシックの品揃えは決して多くないが、個性的な面が受け取れる。

2.山野楽器 吉祥寺サンロード店…今回もっとも興味深かった店。2階のクラシックコーナーの輸入盤は他店では見つからないものも多かったし(ここで、CHESKYレーベルのホーレンシュタイン指揮、J・シュトラウス・ワルツ集を発見!)、BOXもののセールも価格が良心的。目玉商品は価格も安い。

3.新星堂(中央線ガード下にあったが、店舗名わからず。新星堂は吉祥寺だけで何軒かあるようだ)…クラシックの品揃えはやや少な目か。新星堂は安いものは安いので、この規模は少し残念。もしかしたら、他の店舗にあるのかも。

4.DISK UNION 吉祥寺(2号?)店…中古店。1階はオーディオ、2階はジャズでクラシックは3階。なかなか品揃え豊富。お茶の水クラシック館よりゆったりしているのが嬉しい。

5.レコファン 吉祥寺店…中古店。ディスク・ユニオンほどではないが品揃えは良い。

こんなところだろうか。狭い範囲にずいぶん充実した内容だ。こんな街が近くにあればなぁ、と思う。

どこか吉祥寺の街がさみしかったのは、晩秋のせいなのか、それともかつての活気が失われつつあるのか、初めて訪れた私には測りかねるが、武蔵野を感じたせいのような気もした。私が思い描いていた武蔵野というのはあんなんではなかっただろうか。京王井の頭線の車窓に、美しい晩秋の街を見ながらそんなことを考えながら渋谷に向かった…


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