"Kyoto〜京都〜" Archives
2000/10/24-11/30


Kyoto Index



2000/11/30

◆シリーズ・隠れた紅葉の名所−第5回◆
岩屋志明院(北区)

京阪電車鴨東線の終点・出町柳駅から1日5本ほど、雲ヶ畑岩屋橋行きの京都バスが出ている。京都市内の山奥で紅葉が美しいのは、高雄、大原、鞍馬が挙げられるだろう。さすがにこの3ヶ所は有名だし、実際紅葉も美しい。京都に興味があり、時刻表を見ればわかるが、この3ヶ所へはバスが頻繁に出ており、鞍馬にいたっては電車が通じている。しかし、山奥に行くバスの中でいくつか「どこに行くんやろ?」と思うものがいくつかあった。そのうち、調べてみても観光地らしいものもなく「知らんな〜」と思う場所に行くのが、この「雲ヶ畑岩屋橋」行きだった。よく地図を見ると「岩屋志明院」というのが終点からいくらか離れた場所にあるので、学生時代のある日、友人と連れ立ってこのバスに乗った。

バスは北大路堀川を経由して、上賀茂神社の横、賀茂川の左岸を上へ上へと進んでいく。柊野を過ぎると、突如山道となり、堤防が整備され、直線に延びていた街の川・賀茂川が突如山間の渓流に変わる。知らないうちに川幅がぐっと狭まるので同じ川なのか疑いたくなるほどだ。このあたりから、バスはメロディを流しながら走る。カーブが多いので、バスが近づいたことを周囲に知らせるためだろう。さらに、ここから先はどこでも乗り降りができる自由乗降区間となる。やがて、運転手の顔なじみなのだろうか、ひとりのお婆さんが立ち上がったかと思うと、バスは一軒の民家の前に止まった。もちろんバス停などない。京都の街中から30分と走っていないのに、いきなりこのローカルさ。道幅も狭くなり、マイクロバスながら、対向車が来ると、どちらかが待避所までバックして、それでもすれ違うときに、ガリガリ、とバスの壁面を金具がずれる音がするときがあったりでびっくり。土日は大型バスで運行することもあるというから驚きだ。一昔前の山村の風景のような場所をいくつか通り、やがてバスは終点の雲ヶ畑岩屋橋の停留所に到着した。

バス停の前で道路は二股に割れており、右に進むと府道61号線京都京北線だ、が、地図で見る限り、一般車で京北町に抜けられる様子はない。左に進むとまず岩屋橋という橋があり、この先1.4kmのところに岩屋志明院があるはずだ。このあたりでも常緑樹に混じるようにして赤や黄色に染まった木々が見える。橋を渡ってすぐの場所にある惟喬社の薄暗く狭い境内にももみじが真っ赤に紅葉しており美しい。友人と一本道を奥へと進んでいく。アスファルトで舗装されているので山道という感じはないが、民家はすでになく、谷間なので、空が小さく見えるだけである。横には賀茂川の源流が流れ、そちらからひんやりとした風も流れてくる。あれこれ話しているうちに、ちょっとした広場が見えてきた。車が止めてあり、どうやら駐車場のようだ。そこから石段が少し続き、到着した。そこが、岩屋志明院だった。

紅葉がちらほらと見えるものの、日陰ということもあり、特に美しいということもない。ここまで山奥に来たわりに、感動が少ないのだ。懸崖造りもたいした規模ではないし、歌舞伎『鳴神』の舞台といわれてもピンとこない。しかし、これでいいのかもしれない。時間かけて着いた山奥の地で感動が得られると思っているお前たちが甘いのだよ、と、どこかで山伏か天狗が言っているかのように思えた。

帰りも同じ道を戻る。雲ヶ畑岩屋橋のバス停に着いたとき、あたりはもう暗かった。帰りのバスでは、友人も私も市街に着くまで寝入ってしまった。

【京都バス】雲ヶ畑岩屋橋下車徒歩30分



2000/11/29

◆シリーズ・隠れた紅葉の名所−第4回◆
妙心寺(右京区)

このシリーズを始めてまだ4回目だが、はたと困った。京都に紅葉の名所数あれど、「隠れた名所」というのは難しい。有名な名所はいくつか思い当たるのだが…。そこで今回は妙心寺。妙心寺なんて、有名なお寺だ!とお思いかもしれないが、紅葉の名所としては知られていない。

妙心寺は大徳寺などと同じように多くの「塔頭」と呼ばれる僧庵に囲まれるようにして山門、仏殿、法殿、神殿、大方丈などがある。境内は石畳の道路が張り巡らされており、まるで一つの都市のようだ。この石畳の道は二十四時間開放されており、遅くまで飲んだあとでもこの境内を通ることができる。南総門で防犯用のライトに照らされびっくりするが、あとは真っ暗で、静寂の世界が広がる。まず左手に勅使門と池を見る。やがて前方に大きな山門の影が現われる。遠くに犬の遠吠えを聞きながら、月明かりに照らされる石畳を見ていると平安の昔に戻ったような錯覚にさえ陥る。時に見回りの僧侶らしき人影にであったりと、なかなかいい雰囲気だ。昨今の防犯事情を考えると夜間は完全閉鎖にしてしまってもやむを得ないのかもしれないのだが、それでも夜間開放してくれる。近隣の住民の利便性を考えた措置なのだろうが、なかなか太っ腹だ。

さて、紅葉を見る場合は夜ではいけない。ライトアップがないどころか、塔頭の門が閉められているので全くといっていいほど見えない。昼間通ると、塔頭の塀から赤く色づいた紅葉が顔を出している。門の開いている大通院では門を隔てた向こうに美しい紅葉を見ることができる。また、東側の入り組んだ道は白壁が美しく、紅葉とのコントラストや道の角を曲がったときに目の前に広がる景色の新鮮さが何とも言えない。人影も少な目なので、ゆっくり楽しむことができる。

なお、妙心寺は境内を通り抜けるだけならば拝観料などは取られない。塔頭の中には別料金で拝観を受け付けてくれているところもある。実は私は塔頭に入ったことは一度もないのだが、つぎ行く機会があれば、ぜひ入ってみたいと思う。今秋の特別拝観では退蔵院の庭園や如拙の「瓢鮎図」などが公開されたという。

(南総門へは)【山陰本(嵯峨野)線】花園駅下車徒歩5分 または【市バス・京都バス】妙心寺前下車徒歩3分
(北門へは)【京福電鉄北野線】竜安寺駅下車徒歩5分、妙心寺道駅下車徒歩10分 または【市バス・JRバス】妙心寺北門前下車すぐ



2000/11/24

◆シリーズ・隠れた紅葉の名所−第3回◆
法金剛院(右京区)

紅葉の季節、新丸太町通をバスや車で走ると、花園駅の西で、まばゆいばかりの紅葉が目に入る。電車で山陰本(嵯峨野)線を走ったときも同じだ。ある時、「あのきれいな紅葉は、どこのお寺なんだろう?」そう思い、しばらくたったとき、そこに向かってみた。

”法金剛院”…それが、その寺の名前だった。「律宗」という宗派で、奈良の唐招提寺に属しているという。歴史は長いが、栄枯盛衰が激しかったようで、山陰線開通時には敷地の半分を失うなどして、現在ではひっそりとした存在となっている。平時はこの寺の前を通っても、見過ごしてしまうことが多いが、紅葉の季節ともなると違う。訪問者のメモの残されたノートにも「車窓から見える紅葉が気になって立ち寄ってみました」というのがあった。私も同じだ。紅葉は、門のあたりが美しく、境内に入るとそれほどでもない。しかし、本堂でゆっくり御本尊など眺めていると、遠くから聞こえる新丸太町通の車の音や、電車の音が聞こえるだけで、何か落ち着く。時間がなければ外から眺めるだけでもいいと思う。

【JR山陰本(嵯峨野)線】花園駅下車徒歩10分 【市バス・京都バス】花園扇野町下車すぐ



2000/11/22

◆シリーズ・隠れた紅葉の名所−第2回◆
蓮華寺〜三宅八幡神社(左京区)

昨日に続き、洛北の紅葉の名所の紹介。洛北は私自身気に入っている、というのと京都を離れる直前、つまり去年の今頃、最後に巡ったあたりになるからそのぶん思い入れが強い。さて、今回紹介する蓮華寺は、京都にずっと住んでいながらその時まで行ったことがなかったのはもちろん、存在すら知らなかった。おそらく、蓮華寺という、どこの地域にでもありがちな名前も影響していたと思う。

蓮華寺は、大原から途中越えを経て堅田に至る国道の京都側の入口に位置している。花園橋の交差点を過ぎ、いよいよ両側から山が迫り、峠道が始まるか、というところである。蓮華寺は江戸期に加賀藩家老が西八条塩小路(現・京都駅付近)にあったものをこの地に再興したという。小さな門をくぐると、そこは別世界だ。銀杏の木が右手に黄色く紅葉し、そこから銀杏の葉がはらはらと舞い下り、黄色い絨毯を作っている。左手のもみじも緑と赤の紅葉のコントラストが美しく、その奥にある石仏像の石とも調和する。紅葉の時期は、門に入った時点で拝観料を支払うことになるが、その他オフシーズンはここまでは無料である。真っ直ぐ進んで本堂に入る。庭園は池泉廻遊式であるが実相院とは趣きを異にする。左手には山が迫っているはずなのだが、あまりそのことを感じさせない。池に紅葉が映り、ほの暗い本堂から眺めるのは理屈でなく、美しい。その景色に飽きたら、庭園を散策することができる。さほど広くはないが、苔で覆われ、多くの木々が紅葉している。数多くの木が陽の光を屈折させ、柔らかい光線となって降り注いでいる。ここでは光というものが大きく作用しているように思われた。私としては、ぜひ晴れた日に行ってこの光の効果による美しい庭園を見てほしいように思う。しかし、雨の日に行ったらそれはそれで違った趣があったりで、そういった発見があるのが京都の散策を楽しくするひとつの要素でもあるのだが。

続いて紹介するのは、三宅八幡神社。叡山電車叡山本線の三宅八幡駅を降りると、朱色の大きな鳥居が見えるのだが、意外とここからが遠い。距離的にはそんなにないのかもしれないが、ほとんど案内板というものがないので、どこか不安になる。大鳥居をくぐって行ったほうが参詣ルートとしては正しいのかもしれないが、同じく叡山電車の鞍馬線、八幡前駅からのほうがわかりやすいことはわかりやすい。さて、三宅八幡の駅から大鳥居をくぐると、閑静な住宅地が続いている。子供たちが道路で遊ぶ声がして、どこか懐かしい。住宅街を通り抜け、神社の境内に入る。この三宅八幡神社は夜泣きなど、子供の病気に御利益があるとされているが、観光客には知られておらず、まさに地元密着の神社といえるだろう。境内は広く、鬼ごっこなどをしている子供がいたり、犬の散歩をしている近所のおばさんなどがいる。あたりはもみじが紅葉しているが、観光客はおらず、心行くまで眺めることができる。やがて日が傾き、子供たちも家路につく。これといって何がある神社でもないが、このもみじとのんびりした日常の風景があれば充分なのではないかと思う。

蓮華寺 【京都バス】上橋(かんばし)下車すぐ または【叡山電車叡山本線】三宅八幡駅下車徒歩10分
三宅八幡神社 【叡山電車鞍馬線】八幡前駅下車すぐ または【叡山電車叡山本線】三宅八幡駅下車徒歩15分



2000/11/21

◆シリーズ・隠れた紅葉の名所−第1回◆
岩倉実相院(実相院門跡)〜岩倉具視幽閉旧宅(左京区)

11月も下旬となってきた。京都の紅葉は、11月上中旬に大原や、高雄のような高地から始まって、11月中下旬に洛中の紅葉の名所が色づきのピークを迎える。最盛期の期間は短く、一週間と続かない。また、年によって微妙にズレが生じ、その時期に京都に滞在するというのは実に難しい。京都に住んでいる者さえ、注意していないと、紅葉の盛りを見逃してしまうだろう。

今回は、紅葉の隠れた名所を数ヶ所紹介していこうと思う。第1回目は、左京区の山裾にある、岩倉実相院。地下鉄の北大路駅か国際会館駅から岩倉実相院行きの京都バスに乗り込む。狭い道をすり抜け、ダラダラした坂を登りきった終点の目の前が岩倉実相院だ。付近には病院が2つほどあり、通院の老人も多い。もとはこの病院の敷地も実相院の敷地だったという。石段を登り、門をくぐり、白い砂利の敷きつめられた先に進む。どこか研ぎ澄まされた感じで、心がすっきりとする。ここでは2つの庭を楽しむことができる。まず、本堂東側にある比叡山を借景とした枯山水。白砂と左手の紅葉、そして比叡山の山様が単純だけれど奥深い味わいを出している。ここの縁側に座って陽の光にあたりながらのんびりするのが私は好きだ。そして、もう一つの庭は本堂と書院の間にある池泉廻遊式の庭園。かつては書院も常時公開で、実相院に行くと私は書院からこの庭の苔と紅葉を眺め、考え事をしたものだった。現在では本堂側から眺めることになる。こちらの庭は日陰で、紅葉の季節ともなると芯から冷えるのだが、またそれが気持ちを凛とさせ気持ちよいのだ。平日は拝観者も少なく、ゆっくりできるのもよい。

実相院を出て右手に進む。道標にしたがって行くと、岩倉具視の幽閉旧宅がある。幕末期に公武合体をとなえ、皇室の和宮を将軍家に降嫁させたが討幕派に憎まれ、この地に5年間幽閉された。かつては五百円札の肖像だったが、今や知る人も少なく、訪れる人もほとんどいない。特に紅葉の名所というわけではないが、岩倉の静かな佇まいを知るにはいい場所かもしれない。

【京都バス】岩倉実相院すぐ(地下鉄北大路駅、国際会館駅、京都駅などからバス便あり)



2000/11/12

百万遍〜金戒光明寺〜聖護院(左京区)
〜ある洋食屋との出逢い

清水坂のバス停に着くと、すぐに「特206」と書かれたバスがやってきた。「206」が北大路バスターミナルまで行くのは知っていたが、どうもこのバスは平安神宮あたりで折り返してしまうようだ。東山二条でバスを乗り換え、百万遍で下車。雨はすでにやんだようだ。この百万遍は京都大学のおひざ元で、東山(東大路)通と今出川通が交わるところにある。今出川通を西に行くと、御所を挟んで北側に同志社、さらに西大路まで行くと北野白梅町という交差点があり、その西北に立命館大学がある。そんな訳で学生も多く、今出川通沿いには定食屋や喫茶店が多い。今回百万遍で降りたのも、昼食をとるためだった。百万遍交差点の北東には百万遍の由来となった”百万遍知恩寺”という寺がある。1331年にはやり病が京に蔓延したとき、百万回念仏を唱えたら病がおさまったという話からこう呼ばれているらしい。私が学生時代には友人と「百万遍 受けても受からぬ 京都大」というどうしようもない川柳のようなものを作った覚えがあるが、今となってはそれも懐かしい。さて、今日(2000年11月2日)は青空古書市が知恩寺境内で開かれる予定だったらしいが、あいにくの雨で中止と書いてある。去年はこの古書市に等持院の下宿から自転車で来たのだが、あれからもう既に1年も経ってしまった。少し感慨に耽りながらさらに東に向かう。このあたりから飲食店や古書店が連なっている。ふと1軒の洋食屋を見ると「貝柱のフライ 880円」とある。ちょうど洋食、しかも揚げ物が食べたかったので、迷わずこの店に決めた。

店内は落ち着いた雰囲気で、通りに面したテーブルでは教授仲間なのだろうか、60ほどの男性が3人和やかに会話をしながら食事をしている。私も奥のテーブルに腰掛け、例の貝柱のフライを注文した。あとから入って来た京大生らしき男性がとなりのテーブルに腰掛け、何やら雑誌を読んでいる。先ほどの男性3人は食事も終わり、コーヒーか何かを注文しているようだ。それにしても落ち着く。雨上がりの午後、窓からぼんやりと差し込む外の明かりを眺めていると、このまま時が止まってほしいと思うほどだ。ぼんやりとしていると、隣の席の学生のところに食事が運ばれてきた。私よりあとに注文したが、彼は日替わりのAランチと言っていたから、準備が早かったのだろう。ローストビーフとサーモンのフライ。なかなかうまそうだ。あっちにすればよかったかな、と思っていると私のところにも貝柱のフライが運ばれてきた。さっそく貝柱のフライにタルタルソースをつけて味わう。うまい。揚げたての貝柱のフライはコロモがカリッと香ばしく、貝柱は溶けるような味だった。なにか、去年の就職前に行ったウィーンのバイスルを思い出した。
……ウィーンを発つ前日、遅い昼食をとろうと、私はウィーンの石畳を歩いていた。すると、見覚えのあるバイスルを見つけた。そう、ウィーンに着いた日の翌日、ガイドブックを手がかりに訪れた店”ミュラーバイスル”。あの時の食事はたしかにおいしかったが、いかにも観光客相手という感じで、どうも好きになれなかった。私はそこを素通りし、先に進んだ。しかし、もう2時になろうとしており、これ以上迷っている時間はない。そのとき、一件のバイスルが現れた。店構えもこぎれいで、黒板にメニューが書き出されており、まだランチタイムのようだった。私は意を決し、店のドアをくぐった。若いウエイターが私を見るなり、奥の席に案内し、そのテーブルの蝋燭に火をつけた。斜め向かいのテーブルには若いカップルとその父親だろうか、3人が楽しそうに話をしていた。私はウィーン最後の正式な食事となることを考え、白のグラスワインと、ウィーン名物のヴィーナシュニッツェル(豚肉を叩いて薄くしたものに衣をつけて揚げる、トンカツのような料理)を注文した。やがて私の隣の席にひとりの青年がつき、やはりワインと何かを頼んでいた。先に来たワインを飲みながらしばらく店の中やお客、ウエイターなどを眺めて店の雰囲気を楽しんでいると、ヴィーナシュニッツェルがやってきた。あげたてにレモンを絞りナイフを入れてゆっくりと味わう。おいしい。私は味わいながらも、一気に食事を終えた。となりの青年も、出てきた煮込み料理を一気に食べ(何とも早食いだったが!)、満足そうに店を出ていった。食事をしてからしばらく考えた。2週間ほどヨーロッパを旅してきたが、こんなに気持ちよく食事ができたのは初めてではないだろうか。それは、店の雰囲気もあったし、料理の味がよかったこともあったし、ウエイターの気持ちよいサービスも大きかった。私は、納得して10シリングのコインをテーブルに置いて店を出た。その店はガイドブックには載っていなかったが、初めてチップというものの意義を知らせてくれたように感じた。この店に入れただけでもこの旅行をしてよかったと思った。ちなみに、食事代は二千円もしなかった。……
ウィーンでの出来事を思い出しながら、私は京都の洋食屋で心の奥から開放されていく気分を味わった。それとともに、京都でこんなに簡単にこの店を見つけてしまったこと、私が今暮らす町で、いまだにこういう店を見つけられずにいることを残念に思い、明日は京都を離れ、来週からは日常の生活が始まることを惜しく思った。

店を出て、農学部前のバス停まで歩く。雨はすっかり上がり、雨上がりの空気が心地よい。バスに乗り、岡崎道の停留所で降りる。ここは大学受験のとき泊まった宿の近くのバス停で、受験当日の朝、このバス停から不安を胸に乗り込んだことを覚えている。今回は黒谷さんの看板にしたがって金戒光明寺に向かう。普段は境内しか見られないが、秋の特別公開ということで大方丈に入ることもできる。まず、迎えてくれるのが大きな三門。石川五右衛門が「絶景かな」と言ったと呼ばれている南禅寺の三門に勝るとも劣らない立派な作りである。ちなみに、南禅寺の三門ができたとき、既に石川五右衛門は死んでいたとのことで、前出の逸話は俗説だという。こちら、金戒光明寺は南禅寺と違って観光コースにも組み込まれていないことが多く、ほとんど人気(ひとけ)がない。石造りの階段を一段一段のぼるにしたがって、大方丈の建物が上のほうから見えていく。大方丈の右手から特別拝観に入る。襖絵や、法然の書物、一枚起請文など、学生ガイドが丁寧に説明してくれた。正直言うと、特別公開の内容には興味がなかったのだが、本尊を見ることもできたし、丁寧に説明してくれる女子学生に申し訳ないので一生懸命眺めてみたりした。拝観を終え、西に向かって歩く。坂を下る手前で立ち止まってみると、ここは小高くなっているようで、手前には平安神宮の鳥居、国立博物館、さらに先にはさきほど行ってきた清水寺の三重塔など、東山の寺院の瓦屋根が見える。そして右手には京都ホテルを手前に河原町、四条、烏丸、御池のビル群、その周りに京の町家がびっしりと見える。どんよりとした雲の下、手に取れそうで絶対に手に取れない京都が広がっていた。

坂を下り、東に進路を取るとしばらくして右手に聖護院が見えてくる。聖護院はもともと門跡寺院だったという。岩倉実相院も門跡だし、〜院というのは門跡が多いのだろうか。本山修験宗という宗派の総本山であり、山伏や修験者の総本山ということになる。それとともに皇室とのつながりも強かったようで、江戸時代の討幕の意味を隠した襖絵があったり、仮皇居として作りが非常に豪華になっている部分が見受けられた。天明の大火の際には実際に天皇がこの場所に避難していたという。京阪三条駅前にある高山彦九郎の土下座像(=皇居に向かって土下座している銅像)といえば、学生のコンパや友達との待ち合わせ場所として有名だが、この高山彦九郎がなぜ土下座しているかといえば、天明の大火の際、天皇の身を案じて土下座しているということだ。身を案じるのだったら土下座するより先に助けに行けよ、という気もするのだが、その時天皇は聖護院にいたということで、無事だったそうだ。また、後水尾天皇ゆかりの書院には島原の角屋(江戸時代の遊郭)とこの書院にしかないという小窓があったりと、贅沢が見て取れた。ここでも学生ガイドが丁寧に説明をしてくれ、なかなか珍しいものが多く、見応え十分だった。珍しいもの、といえば、ここで「飛行安全」のお守りを買ってみた。修験道の開祖である「役行者神変大菩薩」は平安初期の「日本霊異記」の中で「孔雀王の呪法を修持し、験力を得て天に昇る」とあり、夜は空を飛んで富士山で修行した(お守りの説明書による)ということで、「飛行安全」のお守りなのだそうだ。果たして役行者の飛行が安全だったのか、墜落したことはないのかはよく知らないが、おもしろそうということで買ってしまった。

聖護院を出て東山通に向かう道には聖護院八ッ橋でおなじみの店が数件ある。このあたりは、聖護院かぶらでも有名だったはずだが、今や畑は見る影もなかった。出町柳までバスで行き、大学卒業後、3ヶ月ほど毎日乗った京阪特急に乗って、京橋に向かう。1日歩き回った疲れが出て、やがて寝てしまい、京橋にはすぐに着いた。そして、大学で同じゼミだった友人とも無事落ち合い、再会を祝した。明日は関西からも去る。次に来るのはいつだろうか、と思いながらグラスを傾け、夜は更けていった。

後日、京大そばの洋食屋の名を知りたいと思ってガイドブックを見た。残念ながら、というか、やはり、ガイドブックには載っていなかった。

百万遍知恩寺と京大近くの洋食屋 【市バス・京阪バス】百万遍または京大農学部前下車
金戒光明寺 【市バス】岡崎神社前または岡崎道下車
聖護院 【市バス】熊野神社前下車



2000/11/08

松原通〜清水坂〜清水寺(東山区)

清水寺に来るのは本当に久しぶりになる。修学旅行の定番として、金閣寺、銀閣寺と並んで、いやそれ以上に京都のお寺としては有名な気がする。私も初めて来たのが中学校3年の時の修学旅行だった。2泊3日で奈良・京都を巡る私たちの学校の修学旅行は、最近主流の班別でバスやタクシーで移動するものではなく、昔流の由緒正しい、貸切バスを何台も連ねて集団で各見学場所をガイドを筆頭に引率の先生に囲まれていくというものだった。3日目の昼頃、最後の見学地である、この清水寺に着いた。4月上旬の春の澄みきった青空の下、鮮やかな三重の塔、満開の桜に感激した覚えがある。あれだけ色彩感豊かですがすがしい景色を見たのはあれが初めてだったし、それからあと、日本や世界を旅し、京都にも6年近く住んでいたわけだが、ついにそのような景色にお目にかかることはなかった。その後、サークルで1回、デートで1回ここを訪れたことはあった。あれ以来ということだからゆうに3年ぶりくらいにはなっているだろう。

今回清水寺にやって来たのには訳がある。それは、33年に1度の清水寺本尊御開帳があるからである。期間は平成12年3月3日〜12月3日の9ヶ月間。この間何度も京都を訪れる機会に恵まれながら、結局行けずじまいになっていたのである。今まで、清水寺に行く時は、東山五条の交差点から土産物屋が連なる五条坂から行っていたのだが、今回はそれとは別のコースを取った。実は現在の五条通というのは本来の五条通ではないし、現在の五条大橋は本来の五条大橋ではないらしいのだ。だから、牛若丸と弁慶が戦ったというのはその戦いを模した像のある現在の五条大橋ではないということになる。では、どこにその橋はあるのか、と言えば五条大橋より一つ北側の橋、松原橋である。本来の清水参詣ルートはこちらのほうであった。その証拠に、東山通以東の松原通は通称”清水坂”と呼ばれているのだ。六道珍皇寺の前の通りが松原通である。東山通と交差してからも、土産屋は少なく、本家のほうがすっかり廃れてしまっているようだ。しかし途中からは五条坂と合流し、土産物屋の連なる混雑した道を通り抜け、清水寺に至る。

現在仁王門は修復中。この土台あたりで明治の初め地理寮が設置したらしい標石が見つかったらしい。門の横をすり抜けていくと、髄求道というお堂があった。ここでは御本尊御開帳にあわせ、胎内巡りをしていた。要は長野の善光寺にもあるお戒壇巡りにあたる。入場料が100円ということもあり、迷わず入場。そう長いものではなかったが、珍しい体験だった。さらに登ると通常の拝観料受付(300円)があり、そこを過ぎると御本尊御開帳内々陣拝観受付(100円)というのがあり、ここで33年に1度の御本尊を拝めるというわけだ。何か少しずつお金を取られている気がするが、合計500円というのは妥当な線か。本尊は想像以上に小ぶりで、それでいて上品な顔立ちだった。十一面千手観音像というらしい。暗い本尊内々陣を抜けると清水の舞台から視界が広がる。ここから先は何度か来たことがあるので、私は修学旅行生たちを横目に茶碗坂を通って清水坂のバス停に向かった。

【市バス】清水道下車



2000/11/06

六波羅蜜寺〜六道珍皇寺〜建仁寺(東山区)

2000年11月2日、私は出張帰りに幸運にも休暇を取ることができ、久しぶりに京都を回ることができた。しかし、あいにくの雨。東山通りの206系統で清水道のバス停を降りた。今回は急なことだったのでガイドブックも何も持ち合わせていない。まわってみたい寺だった六道珍皇寺がこのあたりにあるはずだった。しかし、頭が混乱し、六波羅蜜寺だったか六道珍皇寺だったかわからなくなってしまった。六波羅蜜寺は翌日からの御開帳に向け、何かせわしなかった。付近にあった案内板で六道珍皇寺を見つけ、「見たいのはこっちだった」と気づいた。六道珍皇寺も想像以上に小さい寺で、境内は駐車場として貸し出されていた。平安初期の学者・小野篁と閻魔大王の像を見て、何かほっとしたものの、何かさみしいものがつきまとった。小野篁は昼は学者だったが夜は閻魔大王としてあの世とこの世を行き来していたという。しかしそんなことは遠い昔の話、というように駐車場に追いやられるように隅のお堂の暗闇に奉られていたからだろうか。寺の前の商売気の少ない飴屋で「子育て幽霊飴」を見かけ買おうかどうしようか迷った。この「子育て幽霊飴」というのは、赤ちゃんを産んだ女性が不幸にも亡くなり、毎夜毎夜子供を育てるために飴を買いに来たという伝説によるもの。しかし、ついに店の扉を開けるまでの気を起こさせなかった。路地に迷い込んでうろうろしていると、門が現れた。「建仁寺」とある。

狭いと思い込んでいた東山一帯だったが、こんなに境内が広いお寺があったとは。ますます強くなる雨の中、水浸しの境内を門を眺めつつ、本堂のほうへ向かった。それにしても広い。そこでふと思い出した。その昔、京都のウインズを見に出かけた時その前にあったのは建仁寺ではなかったか。あの時はこんな馬券売り場のそばに寺があるなんて、と思っていたが。

雨から逃げ込むようにして建仁寺の拝観受付に入った。海北友松の襖絵などが特別公開となっていたが、寺の人は「この雨では(湿気で襖絵が)いたんでかなんわ」とぼやいていた。たしかにすごい雨だ。座敷の中にいても雨のたたきつける音が聞こえる。雨樋からは滝のように流れ降りる雨水。私のジーンズも雨で裾が濡れ、襖絵を見るのがおっくうになってきた。縁側で滝のような雨を見つつしばし佇む。方丈の枯山水は水に浸かり、あふれた水は枯山水のいたる場所に本物の川や海を作っていた。近くで雷が落ちた。庭園を見学できるように草履と雨傘が用意されていたが、この天候で庭に出るのはあきらめた。

【市バス】清水道下車



2000/10/24

京都駅(下京区)
〜迷路のように、もっとも”京都らしく”かつ”京都らしくない”

京都を訪れる多くの人が、この京都駅に降り立つ。自動車やバスで京都に入ったり、私のように阪急で入ってしまう場合もあるのだが、一般的には京都駅に降り立つことが多いだろう。しかしこの京都駅、京都の中でもっとも”京都らしくない”空間だと思う。それは現在の京都駅ビルに対してだけ言っているのでもなければ、ネガティブな意味で言っているわけでもない。

私の記憶にある京都駅として最も古いのは、中学の頃家族旅行で訪れた時の京都駅である。つまり、1990年頃だ。現在の駅ビルの前の駅舎ということになる。よくは覚えていないが、1階に改札があり、2階に土産物屋や本屋、レコード店などがあり、3階にはレストランや飲食店があったと思う。人口百数十万の政令指定都市の、さらには古都の玄関口としては、何とも貧弱でぱっとしなかった。

そして1994年春、私は京都の大学に通いはじめた。このとき、中学の頃あった旧駅舎の姿はすでになく、駅ビル着工の準備期間にはいり、京都駅は仮駅舎になっていた。私はこの時から6年近く京都に住んだのだが、工事の期間は長く、そのうち4年間くらいは仮駅舎だった。だから、私にとって「京都駅」というと仮駅舎であり、いろんな思い出が詰まっている。まあ、個人的なことはともかくもこの仮駅舎、何度も何度も変更が行われ、1階にあった改札口が2階になったり、改札口が引っ込んだり奥に入ったり、迷路の奥にあったり、とにかく「行くたびに変わってる」という駅だった。いつもかわる得体の知れない生き物のような迷路という印象で、常に刺激を与えてくれ、現在の駅ビルになってからは、かえって落ち着かなかった。

京都駅については、まだまだ書くことがたくさんありそうだ。折りに触れていこうと思う。

【東海道本線・東海道新幹線・奈良線・山陰本(嵯峨野)線・湖西線・近鉄線・市営地下鉄烏丸線】京都駅下車



2000/10/24

京都との出逢い

私が初めて京都を訪れたのは小学校2年か3年の頃、季節は冬の1月か2月頃だった。私が寝台列車に乗りたいと父にせがみ、急行「ちくま」で大阪を訪れたあとだった。たしか阪急で京都の河原町から入り、岡崎の宿に向かったと思う。ほとんど記憶にないが、翌日は冷え込み、京都はあたり一面雪だった。タクシーに乗り込むときに滑って転んだことと、雪の銀閣を見たことを覚えている。

それからも何度か京都を訪れた。中学2年のときの家族旅行、中学3年のときの修学旅行…よく考えれば高校は修学旅行を岡山・広島方面にしたので中学3年の時以来、大学受験の時まで京都を訪れていなかったことになる。なぜ京都の大学を受験することになったのか今となっては覚えていないが、これも何かの運命だったのだろう。受験のとき泊まった宿は奇しくも初めて京都を訪れた時と同じ、岡崎の白河院という宿だった。すっかりきれいに建てかえられていたが、あたりの景色はあまり変わっていないように思えた。受験の前日、大学の下見をするために京の街を移動した。2月の京の街は、初めて来たあの日のように、モノトーンだった。大学を眺め、金閣寺道のバス停へとひとり歩く。バス停では同じく下見して帰ってきたらしい女の子数人が明日の受験に対する不安などを話していた…

それから1ヶ月少し経った1994年3月31日、私は5年9ヶ月という短くも長い京都での生活の第一歩を踏み出したのだった。



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